絵画は表現から個人の行いに変わった

昨日は絵画は表現でなくなったと言うことを書いた。社会に共通となる暮らしが失われたことが原因だとも書いた。絵画は表現でなくなり、個人の行いになったと言うことを考えてみたい。表現でないという意味は厳密に言えば、社会に対する表現ではなくなったと言うことである。
ある範囲の中ではいまでも表現として成立はしている。その範囲が年々狭くなり、隣の公募展でも話が通じなくなったという実感があるという意味である。芸術が成立するためには共感する社会の範囲が必要になるが、共感の基盤となる、共通の暮らしがほぼない社会になった。
このことは絵を描き始めた頃からなんとなくは感じていたことだった。大学を卒業して、フランスで制作したときに、ああ絵の基本が通じないとしみじみ思った。私は中川一政を信奉しているのだから、当然のことだろう。共通となる、画法はあるが、通じ合うためには文化の共通基盤がなければ、芸術としての絵画研究は無理だと感じた。
共通の絵画の背景というようなものは、何時の時代にもないのかも知れない。ゴッホやセザンヌが同時代の人達には理解出来なかった。又同時に無数の評価された絵画らしきものが大量に生産され続けて、消えて言っている現実。
無理矢理社会的理解にあわせて、乗り越えようとすると、絵画ではなくなる。フジタ嗣治がその好例である。評価されるために自由に画法も、描く対象も変えた人である。その結果フジタの絵画は、藝術としての絵画ではなく、イラストであり、その時代に受け入れられるためのものだと思う。
その画法が卓越していたために要領よく時代やその社会での受けるものを探す事ができた。芸術的意味は全くないと考えている。これは一般論ではない。一般論など自分の絵を考える場合まったく意味がない。目立つためには裸になって練り歩くような意味は無意味だと思うだけだ。
案外に芸術が社会への表現であると言うことすら、すっかりと忘れられている。現代美術というジャンルでは今でもそれが試みられている。社会に訴えているとは思うが、まったく社会とは関係なく存在している。社会が影響受けたというようなことはなかった。
だから現代美術は表現にはなっていない。といって、従軍慰安婦像が藝術だとは思わない。テーマも姿勢もある。しかし彫刻作品としての表現力が乏しい。まさか韓国の芸術の高いレベルから言えば、あれを藝術作品とは思っていないのではないか。日本で取り除かれた軍人の銅像と同じである。
美術と芸術が混同されている。巧みな美術品であれば、芸術の一種だと間違って理解している人がいる。誤解されるので、簡単に言えないのだが、苦しみや喜びを共感し、人間に対峙する存在物であるものが芸術作品だと考えている。
宗達の絵を見た時にはその超絶的な上手さに舌を巻く。しかし宗達の人間は分からない。優れた美術品ではあるが、現代社会における、いま暮らす人間に対しては芸術作品ではない。美術も芸術の一つだとする人は、それでいいのだが、芸術と美術は別物と考えないと、制作者としては大きな間違えをすることになる。
ウサインボルト選手が100メートルを駆け抜けるのを見て感動をする。人間が走ると言うことの極限を表している。限界に達していると思える完全な人間の行動は、共感を呼び感動を生む。それが芸術の発生だと思う。飛鳥の丘に立ち、柿本人麻呂が朗々と詩を唄ったのも、芸術の表現だと思う。しかし、それもあくまで同時代人だけが甘受できるものだ。
絵画の描くという行動の中にも芸術行為がある。実際に葛飾北斎は大道芸人として、神社の境内で絵を描いた。現代でもパフォーマンスアートというものがある。見るものへ具体的に目の前で行動をして、何かを作り出したり、あるいは身体表現を行い表現をする。
江戸時代の江戸という生活空間の中で表現されたものは、その場でのみ成立したものだ。それを現代で行おうとすると、人目を引く奇抜さだけになったり、あるいは卓越した技術だけを見せるものになりがちだろう。
もちろん大半のパフォーマンスは、社会に対して何の意味もなしえていない。社会を変化させる藝術などそもそもあったためしがない。しかし、その作品がある事で、一人の人間が変わる。これは長年夢見てきたことだ。社会は変えられなくとも、共感できる範囲の人には、伝わる何かを持ち得ると言うこと。
社会に発信して、社会を変えていない以上、芸術として成立していない。ウサインボルト選手の走りの衝撃にはほど遠い表現と言うことになる。身体表現としては現代舞踏とか状況劇場の演劇とかいうものが、それに近い表現なのだろう。
行動の絵画で言えば篠原有司男をおもいだす。現代では草間彌生だろう。アーチィストと言うことで海外で評価され日本では、そうなのかと再評価された人だが、残念なことにわたしは今の草間彌生の作品を見ても何も感じない。篠原有司男の作品はどこか伝わってくるものがある。共に同時代の作家である。
ナンシーにいた頃、ナンシー演劇祭で日本人が逮捕された。教会で裸になって舞踏をしたからである。草間彌生もそうだが、裸になって表現をするというのもあるのだろうが、そういう行動が芸術としてのパフォーマンス表現になっているとは私は思わない。見たくないだけだ。
表現としての行動ではない。行動そのものが自己完結した芸術行為になるという意味だ。芸術としての行動に成ると言うことは、制作すると言うことが、自己完結しているという意味だ。描くという行為が制作する人間の充実とか生き様とか、その人であるための行為になるのかどうかである。
行動とは、暮らしの中で作られた身体が生み出す動きだ。百姓であれば百姓の動きがある。禅僧には禅僧の動きがある。絵描きであれば絵描きの動きがある。その身体の動きに伴うものとして、絵画の表現が出てこなければならない。やっとここまで書いた。このことを考えたかったのに。
書で文字を書く時自分の名前の書き方さえ分からなくなる。絵を描くときも同じである。何を描いているのかというようなことは判断が付かなくなる。画面の動きについて動いているだけになる。別段ごく平静なのだ。静かに画面に従って描いている。
だからいい絵になると、特別におかしな絵になるとか。そういうことでもない。当たり前の風景画を描いている。筆の動きが自分の行いになるところまで、繰り返すと言うことである。瞑想に陥り、自動描機になりきるわけではない。普通に静かに絵を描いている。一日中車の中に座って絵を描いている。
このこと自体を一番大事だと思っている。何を描くのかの前段階である。何も出てこないとしてもそれでいい。自分で描いた絵を見て、自分のその時の断面を確認している。そのバラバラにも見る一枚一枚を改めて眺めている。どこかに歩んでいるようでもあり、停滞しているようでもある。
今それしか出来ない。あるいは今それが出来ること。精一杯やっているだけである。色々の絵が現われる。自分が様々な者だとおもう。自分の名前が書けなくなったときに、それでも線を引いてみているような状態。自分が精一杯になれると言うことが不思議なことでもあり、全力を費やすことだけに重きを置いている。結果など云々したところで始まらない。