ダッシュ村は残して欲しい

      2025/07/08

多良間田んぼ跡地 ダッシュ村は福島に残るのだろうか。

ダッシュ村は最近見ていなかったが、テレビが残した最も素晴らしい番組だと思っていた。TOKIOが解散するのはかまわない。と言うかどうでも良いことだが、この番組を支えていた人たちの思いは消さないで欲しい。構想を立てていた人たちの落胆は大きいはずだ。

関わったどの分野も専門家の本格的な集団がいることが想像できた。例えば、イネの自分の品種の作出など、極めて興味深いものだった。専門家の指導がなければ、出来るようなことではない。そして何年もかけて男米とか言う自分たちの品種を作出した。

初めて見た頃はどうせ、テレビタレントがやるそれなりのものだろうぐらいだったが、この番組の内容の深さには、自給自足で生きてきた私でも、驚かされることが多かった。私だけが知っていると思っていたような鶏のことがテレビで再現された。本当の百姓が番組の背景にいることが判った。

そのスタッフと、関わって支えてきた人たちとでダッシュ村を続けて貰いたい。今の所TOKIOが降りて、その後も継続されているらしい。と言っても私はテレビを見なくなって久しいので、良く状況は判らない。この機会に、新しいメンバーで出直すと言うことが良いことのような気がする。TOKIOと村に常駐する人の訳の分からない扱いがどうも腑に落ちないことがあった。

自給自足の鶏飼育は深い知識に支えられていた。鶏のふ化についての番組では、私が知っていることだけでなく、教えられることまであった。鶏については、日本の誰よりも詳しいつもりでいたので、どこの誰が指導しているのか、テレビに初めて驚かされたことだった。

ここまでやるのであれば、自給自足にはこういうこともあるからと、教えてあげたいとまで思った。特に、自給自足と山野草の採取の関係、半加工の保存法は必要だなど勝手に思っていた。電気のない時代どのように食料を保存したのかは、取り組んで欲しかった。

そもそも私は一人でダッシュ村をやってきたのだ。それが今から40年近く前になる。丹沢の山の中での自給自足生活の探求。すべてを一人で切り抜けて、自給自足生活を作り上げた。それが「あしがら農の会」に繋がり、石垣島の「のぼたん農園」になっている。つまり一人の自給から、みんなの自給に繋げなくてはならないという思いだ。

ここにテレビがあったのかと、目からうろこであった。テレビでやれると言うことを示してくれることは、大きな広がりを生んだ。こんなテレビ番組は他には経験が無かった。ダッシュ村はどこでやっているのだろうかと最初の頃は興味深かった。それで自分なりに、福島のどこかでやっていると判断していた。

テレビで人気タレントが、自給生活を見せてくれて、それがきっかけで若い人たちが、生活を見直すことになれば、どれほど素晴らしいかと考えて居た。しかし、それはたやすいことではなかったようだ。結局、タレントはタレントにすぎなかった。このストレスがタレントをダメにしていったのではないか。

主演していたタレントが次々におかしくなり、ついには解散である。自給自足のダッシュ村は無理だった。こういう印象で終わることになった。この罪は深いことだ。自給自足を目指す人間が、全くくだらないことで脱落して行く。タレントでなければあり得ないことだ。ああタレントにこういうことを任せたのが間違いなのだ。

本来自給自足に生きると言うことは、自分の生き方が磨かれて行くはずだ。ところが、男米品種はできあがっても、TOKIOの人たちの人間は磨かれるどころか、グズグズになっていたと言うことだ。つまり、形だけの自給自足生活をすると言うことが、人間を崩壊させると言うことだろう。これは人ごとではない。

タレントとして生きるTOKIOの人間と、自給自足に生きる一人の人間との、裏腹な暮らしだ。この2枚の使い分けが人間を壊していったのだろう。タレントが演技として自給自足をしたところで、人間の本質には迫ることが出来ない。底の方に嘘が横たわっていたのでは、長い時間が人間をおかしくする。

生きると言うことを育てる。これが根底にない暮らしは、インチキな暮らし。いつも書くことだが、自分で栽培し収穫した食料だけで生きる覚悟である。TOKIOもそうすれば、甘くないことが判ったはずだ。この覚悟がないから、嘘の自給自足になる。歪んだ自給自足をすれば、人間を壊して行く。雰囲気できれい事で自給自足をやることは怖いことだ。

このことを繰り返し言うのだが、なかなか判ってくれない。おとといも、ひこばえ農法について、田んぼをやっている人たちにやって貰いたかったので、説明をさせてもらった。すると、肥料をやりたくないというのだ。肥料をやりたくないから、ひこばえ農法はやらないと決めつけていた。

そうか、肥料をやらない結果、食べるものがないので、飢え死にする。その覚悟ならそれも良い。もちろんそんなことは言わなかったが、どこかに掲げられた理想論も、生きるをかけて行うならまだ良い。理想に従い死ねる覚悟があるのかである。ただ観念として、無肥料が素晴らしいと、情報見て思い込んだだけでは見苦しいことだし、はた迷惑なことだ。

TOKIOと同じことになる。インチキが生きる根底にあれば、人間が崩れて行くのだ。人間が食べて生きると言うことにはごまかしがない。簡単なことだ。自分が作ったものだけで生きる。それだけである。他には何もない。しかし、それは厳しいことで、出来なければそこで死ぬ。回峰行のような物なのだ。

逆に言えば、正しい科学的な姿勢で、正しく行動をするなら、人間は自給自足で生きることが出来る。出来るから今の人類は、この地球で生きている。この大切な原点を忘れなければ、人間はまた立ち直ることが出来る。それを、実際に体験して貰うために、のぼたん農園はある。

肥料は買わなければならないと言われた。「山に行き落ち葉の堆肥化したものを担いでくれば良い。」「牧場に行き牛糞を拾い集めれば良い。」お金を出すのが嫌ならいくらでも方法はある。方法があるのに思いつかないのは、はじめからインチキなのだ。そのインチキが根底にあれば、嘘の自給生活になり、人間を壊して行く。

自給自足生活は修行の道なのだ。そんなことは直接的には言わないが、実は千日回峰行なのだ。回峰行の方はお布施で生きている。これが実は重いことなのだ。人の手助けで、修行を続けられる。どれほど偉そうなことを掲げようとも、ものもらいなのだ。ものもらいが、貰ってあげられる人間にまで成長するのが、回峰行である。たぶん何のことか判らないだろうが。

私の場合、お寺で生まれた。お布施で生活しているインチキに耐えがたいものがあった。ものもらいで生きる。ものをもらえる人間である自信が無かった。そこで、自給自足の生活に入った。人間が生きると言うことを自給自足で見つけようと考えた。だから、自給自足を達成したときの、これで絵を描いていて良いい。この安心立命はなかった。

TOKIOのダッシュ村素晴らしい企画ではあったのだが、テレビはそれを情報にしてしまったのだ。その情報という渦の中に存在したTOKIOは自己矛盾にゆがめられたのではないだろうか。こんなはずではないと思い止めた人もいただろう。自分の2面性を抱えて苦しんだ人もいたのだろう。人間だもの。

それでもTOKIOという仮面はかぶっていなければならない。次々に化けの皮がはげていったということになる。ダッシュ村は消える。しかし、ダッシュ村が支えたものはある。あそこに集まった自給自足のノウハウの総合性は素晴らしい。日本にはまだそういう知恵が残っていたと言うことだ。

TOKIOの誰かがダッシュ村に戻って、本当の自給自足をしてみたらどうだろうか。人の手助けなど借りずに、自らの手で生き直してみたらどうだろうか。生きると言うことは、誰しも身一つである。そこに立ち返る方が良い。もしダッシュ村が本当のことなら、それが出来るはずだろう。

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