ダイハツ車販売中止

   



 ダイハツのほぼすべて車種に於いて、申請データーの不正が行われていた結果、全車種販売停止になった。前代未聞なんと言うことかと思う。日本の一流企業のはずのダイハツが、モラル崩壊と言うことだ。ここまでダメになってしまったかと、日本人が失われて行く衝撃がある。

  私もダイハツの車に毎日乗っているので、どこか不安になる。社長は大丈夫だと会見で発言したが、どういう根拠でそう言えるのだろうか。何のための認証試験なのか。安全性の確保のために行っていたのだろう。それ程深刻な部分ではないと言うことなのだ。

 ダイハツ工業の認証試験不正問題で、国土交通省は21日、不正なデータで国の認証を取得していたとして、道路運送車両法に基づき、大阪府池田市の同社本社を立ち入り検査した。同省は不正行為の実態解明を進めた上で、量産に必要な「型式指定」の取り消しなどの行政処分を検討する。

 一番古いもので1989年の不正行為が認められる。全体の傾向としては、2014年以降に不正行為が増加している。 
(1)エアバッグのタイマー着火(不正加工・調整類型)
(2)試験結果の虚偽記載(虚偽記載類型)
(3)試験速度の改ざん(虚偽記載類型)
(4)タイヤ空気圧の虚偽記載(虚偽記載類型)
(5)助手席頭部加速度データの差し替え(元データ不正操作類型) 

 これはダイハツだけの問題なのだろうか。ばれなければ何をやってもかまわないという、安全意識では車の販売を行うなど許されるはずがない。こんなことが40年ものあいだあったというのでは、常態化していたと言うことになる。この40年間不正が分からなかったという国の検査も成立していない。

 結局の所、経済競争に勝つために起きたことなのだろう。そういえば、以前軽自動車のライバルであるスズキでも起きたことだ。あのときダイハツではどう考えたのだろうか。競争に勝てると思ったのか、自分たちもいずればれると思ったのか。

 企業の生産性の低下が起こるわけである。不正をやっても自分の担当カ所を通過させてしまおうと、考えた技術者が多数存在すると言うことだ。こんなごまかしが通用するという職場では、働きがいもなければ、公正な判断をする労務管理もないに違いない。

 仕事に誇りがないのだ。企業の中で働くと言うことが、人間を疎外していると言うことになる。自分の仕事が安全に関わる仕事であるにもかかわらず、目先の自分の立場の確保の方に意識が向かっているのだ。自分の作り出したものに対して喜びがなかったはずだ。

 調査委員会の見解によると現場の不正で存、管理職には気づけなかったとある。それはつまり、管理体制が不備と言うことだろう。管理職は40年もの間一つのチェックも出来なかったのだろうか。薄々分かっていながら自己保身も存、気付かなかったことに済ませてしまっただろうか。

 多分ダイハツだけではない。自動車産業だけでもない。あらゆる日本企業の中かが競争主義で倫理を失っていると考えざる得ない状況だ。これが日本の停滞の一番の原因ではないだろうか。自分の仕事に対する姿勢がおかしくなっている。仕事を賃金を得るだけのものと考えているのだろう。

 自分の生き方と仕事が関係していない。生き方として仕事を選択したのであれば、不正など出来るはずも無い。不正をすれば自分という人間をおとしめることになる。企業の体質とか、認証制度の問題点とか、そうした問題ではない。人間の生き方が、ゆがめられたのだ。よりよく生きると言うことが、企業の中では難しくなっていると考えた方が良い。

 企業文化も、政治文化も、地に落ちている。日本人がここまでダメになったのかと思うと、寂しい限りである。これは一部のことだと思いたいが、どうもそうではない。日本社会が全体が倫理を失ったのだ。要領よくやって、自分の立場さえ守れば良いというのだろう。

 根は深いと言わざる得ない。日本社会の風潮と言える所まできてしまったのではないか。日本社会では、上手くごまかせばそれが賢いやり方になってしまったのではないか。損得抜きに愚直に生きるような人は、少数派になってしまったのだろう。

 愚直な人が生きにくい社会になっているのだろう。そういえば絵の世界でも愚直な絵がなくなった。萬鉄五郎、熊谷守一、児島善三郎、こうした人達には人目など全くない。ただ自分の絵に向かい進んでいる。しかもそういう人を世間が評価したのだ。ここに本当の文化が在る。

 今の時代にこの三人のような画家が現われたとしても、評価が出来ないだろう。社会の中にひろく、上質な文化が存在した。上質なものを見分けることの出来る鑑識眼が存在した。江戸時代の庶民の鑑識眼が浮世絵を生み出したように、明治以降にも、まだ上質な絵画文化は存在した。

 ダイハツの不正を生んでしまった原因は、日本人全体の問題だと考えた方が良い。そして出直すべきだ。その現場にいた一人の人の問題ではない。ダイハツが処分されたとしても、日本の社会全体に蔓延している、ごまかしても競争に勝つ奴が利口な奴だという、倫理喪失は解決できない。

 農業で言えば、有機認証作物と言いながら不正をしているような人のことになる。有機栽培の作物を作ることは、作る作物が一番良い作物に成るからだ。有機で満作に出来た作物が一番良い作物だ。作物が満作になるには、有機栽培でなければ不可能だから、有機栽培の技術で行う。これが本当のところだ。

 良い作物を作りたいと考えたならば、有機栽培しかないのだ。JAS有機基準を守るというのは、良い作物を作る最低限の方法なのだ。それに加えて、それぞれの土地や機構に適合した農法が存在する。ひたすら良い作物を作ると言うことに専念すれば、有機栽培になる。

 しかし、その作物が採算にあうのかと言うことは、その作物を食べる人が作り出す世界だ。良いものを見分ける文化がなければ、有機栽培は広がることはない。除草剤を使うのは別段悪い事ではない。ただ満作の作物が作れないだけだ。良い作物が評価される文化がなければ、良い作物は現われない。

 自分が食べるものに価格はない。もちろん競争も無い。だから自給農業をしている。よりよい作物を作り出す、農業技術を探求している。その自給農業の技術は、次の時代貴重になると考えているからだ。百姓はそういう暮らしをしていたはずだ。

 日本は産業革命をいち早く受け入れることが出来た。戦後もすべてを失いながらも、高度成長を達成し、先進経済国になることが出来た。しかし、ずるずると後退を続けている。その一端が、ダイハツの不正事件に見られる。愚直にやっていたのでは世界の競争に遅れるという焦りだろう。

 日本がなぜ、戦後すぐに復興できたのかと言えば、その時代にそこに暮らしていた人達すべての人間のレベルまで、その国は立ち戻れるのだ。国家は人間なのだ。人間を育てることが良い社会を作る根本である。人間を育てるには、学校教育に作務を取り入れることからだと思っている。

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