有機農業の意味

   


 八重山イシガメ 3匹があなのなかにいる。

 有機農業は志である。有機農業は哲学である。有機農業は人間の生き方である。化学肥料を使う近代農業を否定するものではない。近代農業は産業としての農業であるが、有機農業は自然の摂理に従い、自然との調和の探求である。人間の自然の中での折り合いの付け方である。

 先日現代農業で、有機農業と慣行農業を比較して、「思い込みと分断を乗り越えて」とう記事があった。肥料の吸収はおなじ物であるという酪農学園の教授の文章が出ていた。慣行農法の人がどこか有機農業に引け目を感じているのはおかしいと言うことのようだ。それはその通りだ。慣行農法も素晴らしい産業としての農業だ。

 ただ両者の科学的意味合いは、やはりまったく違うと考える必要がある。2つの農業の形は大きく異なるという大前提を忘れてはならない。農作物を作ると言うことではおなじだが、作り方が違うと言う事実は厳然としてある。化学肥料は農薬を使わざる得ない農法であり、自然と対立する農業である。

 有機農業の経験も、慣行農法の経験も無いひとが、農業のことを浅い知識で考えて口を挟むのは大学教授でもゆるされない。有機農業で生きると言うことは、よほどの覚悟がなければ不可能なことだ。その土地に適合する自分の農法を作り出す気概と観察力がなければ出来ない農業なのだ。

 その文章中に化学肥料だけで180年間作っている小麦畑の話がある。その畑の作物もまったく問題が無いので、化学肥料だけで作ることも問題が無いと結論づけている。その作物がどのように問題が無いものであるか、分析したのだろうか。作物の成分を調べれば異なることが分かる。おなじになるとすればその方がおかしい。たかだか180年である。有機農業は3000年の永続性がある。

 化学肥料で作る慣行農法は当然農薬がセットになる。農薬の残留など調べたのだろうか。周囲の自然環境に対してどのような影響があるかは考えたのだろうか。化学肥料を使うと言うことは、農薬を使わざる得ないことになる。何かが調和しないから農薬が必要になる。実際には農薬を使わない、化学肥料農業は存在しない。

 化学肥料を止めなければ、農薬を止めることは出来ない。農薬を止めるのが咲ではなく、まず化学肥料を止めるところから始めなければならない。化学肥料と農薬は組み合わせで成り立つ農業である。農薬は必要悪ではある。農薬の使用がいらない、化学肥料の農業があり得るだろうか。

 収量はどうだろうか。180年間化学肥料で作った畑と有機農業で作る畑では化学肥料の方が収量が多いとしている。有機農業だから収量が低いのは仕方がないという有機農業の方が居るが、それは努力が足りないのか、有機農業の技術能力が低いと言うことだ。有機農業には草は取ってはならないというような非科学的なものが混在する。

 有機農業の方が手間暇はかかるので、作物の価格は高くならざるえないが、収量が低い有機農業は間違った有機農業だからだ。有機農業は作物本来の能力を十二分に引き出す農業である。作物は満作になるのだから、当然収量も多くなる。しかし、雑草や病害虫などの問題があり、収量が上がらないことがままある。

 それは雑草を取る努力が足りない。あるいは自然との調和が崩れているだけのことだ。その収量が低いことを有機農業という農法の理由にするのは言い訳に過ぎない。有機農業を十二分に行えば、周囲の慣行農法よりも生産量は高くなる。

 あしがら農の会の実践では稲、大豆、小麦、ジャガイモなどで証明できている。興味のある方はどなたでも参加できるので、有機農業塾や田んぼの会に申し込んでもらえばいい。酪農学園の先生にも是非参加して貰いたい。有機農業とは何かが身体で感じられるはずだ。

 有機農業では、土壌を育てる5年間の時間が必要である。有機農業の土壌が完成するには5年間の土壌を育む期間が必要になる。農業を行うための土壌は促成では難しい。ここが化学肥料とは違うのだ。徐々に育んで、良くしてゆくものだ。一定良くなればその後は繰り返し手入れをしてゆけば良いことになる。

 有機農業は自然の摂理の中にできる限り織り込んでゆくものだ。だから自然に従える範囲でしか作物は作ることが出来ない。限度を超えれば自然との調和が崩れる。できる限りビニール資材を使わない方が望ましいことになる。当然、化石燃料もできる限り使わない農業である。あくまでできる限りのことだ。

 こういうことを書けば、必ずそれでは人間の食糧が不足すると批判する人が居る。その反論として、私は食糧自給を40年間試みてきた。有機農業で一人の食糧は100坪で自給できると結論を出した。そんなことはあり得ないとまだ批判する人は居る。それなら見に来いと言いたい。一緒にやってみれば分かるといいたい。

 私の自給農業は、人間が有機農業で生きていけることを証明するつもりで食糧自給を続けてきた。そして身をもって証明できた。国の食糧自給は農業で働く人が居るかどうかである。肉体労働が出来ない時代に突入している。日本では外国人研修生の力で、農業が行われている。これも遠からず終わるだろう。

 有機農業は慣行農法よりも手間暇がかかる。だから、食料は自給をするほかないのだ。この手間暇が資本主義では一番高く付く。自給農業は手間暇を、遊びと考えることで実現出来る。健康のための運動と考えても良い。人間の健全性を保つ活動と考えても良い。おおよそ一日1時間農業をすれば、自給は出来る。丁度良い1時間ではないだろうか。

 しかし、それはみんなでやる農業である。一人でやれば、2時間かかるとみなければならない。協力し合うことも現代人には必要な学びではないだろうか。他人を責めてばかり居て、口だけで身体を動かさないような人が必ず現われる。そうした人は有機農業には向かない。協働の農業は出来ない。

 有機農業は哲学なのだ。人の生き方なのだ。土壌が育まれるように、人間にも自然との調和が求められているのだ。自然との折り合いの付け方の中に、人間の成長がある。有機農業を自分の枠に収めようとしては自分の有機農業の完成はない。

 与えられた場所を最大限生かすように、自然との折り合いの付け方を探求するのが有機農業なのだ。それは化学肥料とか、農薬とかで、自然を制御しようという考えはここでは無意味になる。自然に従いながら、自分を自然に織り込んでゆく範囲での生き方である。

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