アトリエカーで絵を描く

   


 ひこばえが出てきた稲。果たしてこのひこばえが、幼保を形成してしまうものなのか。あるいはしっかりした新しい稲になるのか。それはまだ分からない。無効分ゲツのような小さいまま穂が突いてしまうこともある。この後観察が重要になる。普通よりも1週間早く刈り取れば、幼保が形成されないという山岡理論は果たして正しいものだろうか。

 アトリエカーで毎日絵を描いている。ここ1年半はのぼたん農園のどこかに車を止めて絵を描いている。のぼたん農園を見ながら描いていることもあるが、ほとんどの場合、どこか別の風景や静物を描いている。それがあまり良い事とは思っては居ない。

 いまの絵の描き方が良い描き方だからやっていると言うより、分からないままにやりたいことを続けているだけなのだ。絵を描いていて何が良いか分からない。自分なりに頭で考えるのも良いのだろうが、絵に関してはどんなことでもその時の気持ちに任せている。だいたいはアトリエカーの中に座ってから始まる。

 人が良いというようなことは、絵を描くうえではまるで役に立つことはあまりない。例え中川一政の本に書いてあるからと言って、参考になるようなことはまったくない。おなじだと思うことはあるし、違うなと思うこともある。おなじだから良かったとも思わない。他人の絵の描き方が、役に立つことなどあり得ないと思っている。そう中川一政も描いている。

 絵を描くと言うことは自分というものを、やり尽くしたいということに繋がっている。自分を知り、自分というもののいのちを燃やし尽くしたい。生まれたからにはそうでなければ残念なことになると思っている。絵を描くことが好きだから、絵を描くと言うことを、巡り巡って修行だと考えてやっている。だから人の考えてくれる、絵の描き方では何も役立たない。

 だから裏返せば、私の絵の描き方が他の人に役立つはずもない。ただ絵を書くと言うことが、表現藝術ではなくなり、人間探求の方法になったのではないかということだ。このことは、絵を描くすべての人が自覚した方が良いと思う。余計なお世話かも知れないが、今更訳の分からない絵の描き方をしている人がいることにあきれる。

 もちろん商品絵画は、藝術としてではなく、これからも存在して行くことだろう。それは私には別ジャンルの話だ。絵画を藝術として考える、と言う意味は、絵画として表現されたものが、社会や人間に影響を与える価値あるものという意味だ。

 そういう絵画の藝術としての役割がすでに終わったのだと思っている。私の考える狭い意味での藝術としての絵画作品という意味で考えると、そうした絵画はそもそも、極めて少ないものだったと思う。たまたまそういういのちを揺さぶる絵画と出会えることは、幸運なことなのだ。

 私の絵がそうした芸術作品にはおよびもつかないから、こんな考えを持ったわけではない。様々な表現藝術によって、現代社会も人間も影響を受けている。特に20世紀が映像の世紀と言われるように、藝術としての映像が人間や社会に大きな影響を与えるように変わったのだ。

 音楽や映像が、新しい機器が作られることによって、人間に大きく影響を与えてる。しかし、絵画の表現法は実に内職仕事のようなもので、この様々な表現が溢れる社会の中では、影響力という意味ではほとんど無に等しい。むしろ無に等しいからこそ、個人の中に戻ったのではないか。

 人間が外部世界から大きな刺激を受け続けている。社会に流されて生きざる得ない。そこで、人間が生きるためには、自らの行為の中に自分の確立を探る時代に移行しつつある。何をしたいのか。農作業をしたいとすれば、農作業をしたい自分の、その奥にある意味を探ることになる。

 結局世界がどうであるにしろ、生きると言うことは自分一人の問題である。この自分が生きるという、誰にとっても最も重要な問題に、藝術を通して直面する必要があるということだ。絵描きというものは本来そういう人のことであり、商品絵画や装飾画を描く人は、藝術とは縁のない人なのだ。

 農家に生まれて、いつの間にか農家になり、暮らしに負われて農業を続ける人は多いだろう。それでは農業が指しておもしろくはないに違いない。自分が農作業をやりたいとすれば、そういう農業ではない。芽が出る瞬間を見たいから種を蒔く。

 絵を描きたいと言うことは、絵を描くと言うことで自分に直面すると言うことで無ければならない。他人が良しとする絵ではなく、自分自身が良しとする絵に向かわなければならない。それはどんな絵なのかは、自分の中を探る以外にない。こんな絵を描きたいというものが、その人のある面を表しているはずだ。

 しかし、ここでいうこんな絵は他人が描いた絵のことだ。まだ自分が描いていない、自分の描く絵はまたその絵とは別の絵と言うことになる。自分の中の眼がこれならば、自分の絵だと言えるような絵のことだ。その絵に向かって日々努力を続ける。

 その絵は、生きている以上限りなく成長して行くはずだ。ここまで描ければその次が見えてくる。さらにその次を求めて、描き続けることになるのだろう。生きている間は成長を続けるということだろう。日々の絶筆。その覚悟が私絵画の道だ。

 どのくらい日々を真剣に生きる事ができるか。もし本当に生きる事ができているのであれば、それは絵に現われてくる。現われてくるような絵の描き方をしなくてはならない。生きていることと直結している絵の書き方であればそうならなければ嘘だ。

 観ている世界を移している間はまだ、絵空事で、私絵画ではない。良い絵を描こうというのでは無い。自分に至る覚悟があれば、自ずと自分の何ものかが絵に現われてくるはずだ。ちゃちな自分ではあるが、ちゃちなまま現われればそれでいい。そのちゃちな自分を磨いて行くことになる。

 問題は昨日描いた絵より、今日描く絵がわずかでも進んでいることだ。何かを日々つかまなければならない。少なくともその覚悟で絵は描かなければならない。どこまで行けるのかは分からない。そんな先のことではなく、今日一日精一杯描けるかだけを考える。

 それは、絵だけのことではない。のぼたん農園も同じである。最善を尽くすと言うことしか無い。今台風2号が石垣島をめがけて進んでいる。どれだけ、風よけのネットを張ったとしても、稲が飛ばされてしまうときには飛ばされて終わるだろう。

 問題は、収穫だけではない。やれることをやりきる事ができるかが問題なのだ。考え得ることすべてをやる事しか無い。そのやりきることを重ねて行くの、自給農である。

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