人間とは何なのか。

   



 チャットGPT についてG7でも「規制」が論議されたという。まったく人間が未来に対して自信を失っているように見える。自由と民主主義を共通の価値観として守る国々であるG7が、生成AIを民主主義を疎外するものになるかも知れないというのだ。

 AIの進歩を人間の自由と民主主義の確立に生かさなければならないだろう。扱い方次第なのだから、始めから拒絶するより、まず使ってみて良いところと悪いところを見極めることだろう。必ず役に立つ技術のはずだ。上手く使え場人類に可能性を広げることになる。

 AIは人間が使う道具である。人間が道具に使われるかも知れないという不安らしい。科学の発展を止めることは出来ない。核爆弾が作られた事は、人類にとって最悪のことだが、未だ爆弾の数は増え続けている。プーチンは核攻撃をちらつかせて隣国を脅している。

 人間がおかしいから核爆弾を廃絶できないのだ。人間がおかしくなれば、何でも狂気になりかねない。人間がおかしくならない社会を作らなければならないのが本筋だろう。ところが、人間が徐々におかしくなり始めていることも確かにそうだとおもう。

 今出てきたまだおもちゃ段階のチャットGPTを議論しても始まらない。この先あっという間に能力が向上して行くはずだ。いまの不十分のチャットGPTを拒絶しないで使ってみなければならない。出来た笑い話が笑えないからたいしたものではない。と言う程度のことを根拠にしているようでは、AIを語る資格さえない。

 問題は10年先には、普通の人の作る文章はかならずAIより劣るようになるということだ。膨大な情報収集し、それを分析し、そして統合する。その結果を文章化してくれるのだろう。それに頼って自分の頭を使わなくなるようなら、それまでの人なのだ。

 これからの時代発想力の無い人はいらなくなるということでもある。つかいたい、つかえない、の前に使うほかなくなるのだ。人間の発想力を鍛えるものになるはずだ。むしろ、天才以外は使うしかないことになる。島根県行政が10年先も禁止していられるはずがない。

 国会答弁に使いたいといった大臣がいたが正直なところは良いが、情けないことは情けない。国会答弁の意味ははき違えているが、自分や官僚の能力がAIより劣るてんだけはよく分かっている。正確に答えておくにはAIを利用した方が安直なのだ。

 安直に流れていって、人間を見失うのではないかというのが、問題点なのだろう。国会が安直で良いかといえば、現実の国会答弁が本当の議論の場になっていない、安直な場所のだから、それより正確性だけでも増せば、まだ増しという判断。揚げ足を取られない文章をお願いしますと、頼むのだろう。

 一体人間とは何なのか。人間がよりよく生きると言うことがどういうことか、ここが問題なのだ。人間が安寧に暮らすことが一番だとすれば、そのための判断を人間には任せておけないのでは無いかと言うことだ。人間はそんなに情けないものではないと信じるところだろう。

 プーチンはウクライナ侵攻を是としたのだろう。AIに聞けばおもちゃレベルとは言え、ダメだと判断したはずだ。プーチンは人間的だから、間違ったのだろう。怒りが判断を間違えさせたのだ。負けず嫌いのロバの王様を馬鹿にしたのが行けなかったのだ。

 人間が判断すべき事はある。自分の生き方である。これは正しいとか、間違っているとかで決めるようなことではない。自分の充実は自分にしか分からない。人が見れば馬鹿げたような生き方を、素晴らしいもので良しとするのが人間である。

 人間が生きるのだから、その点だけはAIでは測れない。人間はそう簡単なものではない。100人100色である。その人が好む色は千差万別である。それをAIに決めてもらおうとしても、無駄なことになる。重要なことは人間であるという個別性である。

 絵画というものを考えてみればわかる。絵画で重要なことは自分が描くという行為にある。これが私絵画の芸術性である。これはAIに置き換えることができない。自分の生きる行為として、絵を描くということが残るのだ。そのために、AIを大いに利用する絵画は出てくるだろう。

 中川一政の絵画は素晴らしいものだと私は考えている。ところが、プレパトの先生の聞いたら、凡人レベルということだろう。形もしっかり取れない。何が描いてあるかさえ分からない。それでいいのだ。素晴らしいと思える人が思えば良いだけのことだ。

 上手く写し取ることを絵画だと考えている人の絵画は入らなくなるということだ。上手く写し取る技術を見せようなどということならば、写真機とAIを組み合わせるのが一番だろう。絵画の素晴らしさの中に人間というものの意味がある。未だかつてないものを創造できるということだ。

 自分の内部世界は未だ踏み込んでない世界だ。この自分というものの可能性を、どこまでも掘り下げ、発展させるのが人間なのだと思う。人との比較では無く、自分というものを探求する。絵画でいえば、私絵画の時代が来るということになる。

 今の時代は、くだらない描写に依存した絵画が蔓延している。人間が劣化している結果である。社会が停滞しているからだ。新しい人間らしい価値を受け入れる余裕を失っているのだ。ゴッホやセザンヌが現われた事には人間の必然がある。

 人間内部をより深く掘り下げる哲学が生まれたからだ。日本の装飾美術も、梅原龍三郎や中川一政が現われて、人間を哲学する絵画に向かった。絵画が自分の人間の表現になったということだろう。まったく他と比較しない絵画である。その二人が文化勲章だった時代があるのだ。

 その時代に比べてみれば、いかに現代の絵画水準が低いかが分かる。新しい哲学を絵画の中に見れるような絵画は滅多にない。まったく陳腐化してしまっている。これは絵画も資本主義に飲み込まれ、上っ面の商品絵画だけが流通している結果である。

 この滑稽な時代を変えてくれるかも知れないのが、AIだとおもう。詰まりそんな人間の本質とかけ離れた絵画であれば、AIがいくらでも制作してくれるということが証明されて行く。人間がやるべき事が何なのかを気付かせてくれるだろう。
 

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