コロナで思う宗教の事。

   

 マスクをまだまだやめられない。人混みの室内では、マスクをするようにしたいと思っている。老人にはまだまだ危険なコロナ感染症がパンディミック状態である。政府は老人や病弱の人が感染して、死んでゆくことをやむえない事として受け入れることにしたようだ。

 人の命は平等ではない。確かに姥捨て山ではないが、高齢化社会の文明の整理としての「解決策のように」コロナが登場したように見えてきた。働かない老人は社会には迷惑という事らしい。さすがに政府はそんなことはあからさまには言えないので、変わってコロナが登場したかのように見える。

 不都合な真実という奴だ。誰かが意図したこととは思われないが、神のようなものの意図と言えばそうなるのかもしれない。そんなことはないので、つまりそれが人間が生き物が生きてゆくための摂理というものかもしれない。あがいても無駄なことだ。我慢して受け入れる他手段がない。

 人類全体の為だと言っているとすれば、つじつまがあう所が怖いことだ。今この状況でマスクを外せという意味は、老人は感染して死んでも仕方がない。いつまでもマスクをしている現役世代にとっての、社会の弊害の方が大きい。中学3年生が同級生の顔を知らないと言った。確かにこれは新しい状況だ。

 そういう事なのだ。これは異常だ。早くマスクを外すべきだという言葉もわからないではない。しかし、日本教がマスクをするべきものとすればそれはそれで済むことではないか。イスラム教徒の女性は顔を出さずに生きている。日本人が人前でマスクを外すなどそもそも恥だと思えばいいことである。

 顔を隠するという事は、そもそも高貴な方では普通のことだった時代もある。日本人は無宗教という事ではない。無理やり明治政府が皇室を奉り、神道の国づくりをやろうとした。その結果、日本教の様々な在り様が、前近代的、迷信のようなものとされたのだ。

 そう少し話がそれるが、天皇の位置づけが少しおかしくないだろうか。以前より重きが置かれるようになっている。そもそも天皇と神道は関係がない。日本を皇国として、無理やり仕立て上げるための、様々な工夫で、仏教を排除し、神社を日本教の教会にしようとしたのは明治政府である。

 その強引な歪んだ政策。天皇を中心とする明治帝国主義が、日本人が本来持っていた土俗的な宗教を迷信として排除することになった。これは日本人として大きな失敗であったと思う。本来人間が生きるという上では、宗教を必要とするものだ。それを自分は無宗教であるという意識が当たり前に日本人にはできてしまった。

 このことで日本人の精神世界は実に薄弱なものになった。日本人は信仰と言えば、邪宗の洗脳のように考えてしまうようになった。オウムや統一教会はと宗教は違う。本来の宗教心とは、一種の哲学と言えるものだ。それぞれの人間が深く思索するためには、宗教心は重要なものなのだ。
 
 信じるとか、信仰するという事は、決して洗脳されるというような性格のものではない。自分の生き方を突き詰める上で宗教の支えはとても重要なものになる。生きる指針なのだ。自分というものは分からないものである。死んでゆくことも、生まれてきたこともわからない。

 その分からない様々なものを、どれだけ自分の内なるもとしてとらえるか。ここには宗教が手助けになる。それは教えでもあるのだ。私は禅宗の僧侶として生きているつもりだ。そして道元の教えから学んでいる。そして、禅の修行を自分なりに行っている。修行の方法は、道元を通して自分なりに作っている。

 その時道元という宗教が自分には助けになっている。学ぶ一つの指針になる。否定することもあるし、肯定することもあるが、宗教という一つの思想が、自分の思考の助けになっていることだけは確かなことだ。道元に頼っているわけではないが、ある意味一つの否定的媒介にはしてきた。

 道元は悟りまでの道のりを盛んに述べている。問題は悟って何をやるかの方にあると考えている。あるいは悟れないかもしれないが、悟りに至ることはできないとしても、不十分ながら、何をやるかの方が重要であると考えている。

 悟らなければ人を導くことなど出来ない。という事なのだろうが、導くことなど出来ないし、要らない。自分の生きる混成だけが問題なんのだとおもっている。そして未熟な人間が未熟ながらの生き様こそ、他の人への参考になるともいえる。

 私の絵はそういうものだと思っている。それはゴッホの絵も、マチスの絵も、途上であるからこそ、大きな思想を示している。結論を見せられるよりも、その制作の苦悩が画面に現れて、絵画はそれを共に味わうものでもある。

 中川一政の晩年の達観した絵は確かにすざましい迫力であるが、あの駒ケ岳の連作に見られる、苦闘の残る画面も大いに学ぶところがある。絵はそういうものなのだろう。見事に完成したものよりも、不完全ながらの探求の過程の残る絵画の魅力というものもある。

 マスクの話から随分とづれてしまった。マスクをするという事はまだ死にたくないという事だ。もう少しのぼたん農園をやらしてもらいたい。必ず成果を物にするので、時間の猶予を与えてもらいたい。その為にはまだマスクは必要である。

 これはあがきと言うだけではない。日々の最善を尽くすという事だ。今マスクをしているという事の方が、最善だと思う。少なくとも年寄りはマスクが必要だ。出来れば若い人も、年寄りのいる室内では、マスクをしてもらいたいものだとは思うが、それは若い人の自由な判断で良い。

 そういう事は年寄りの方から言うようなことではない。室内では今後は2枚マスクにするぐらいの用心をするほかないのかもしれない。まだまだ1年ぐらいは収束しないだろうから、感染しないために注意をする。しかし、行動は必要以上には委縮しない。

 やるべきことをやらないで、閉じこもるようなことはあってはならない。積極的に野外活動をしたい。コロナ下であるからこそ、のぼたん農園の活動はさらに積極的に進めたい。のぼたん農園の活動は感染リスクがほぼないと言える。風の強い農園の作業は本当に感染リスクがない。

 石垣島に越したことも、何かの導きかもしれない。コロナがはやるから、その前に石垣に行きなさいという事だったかもしれない。そして、のぼたん農園をやりなさいと、いう事だったのかもしれない。めぐりあわせの不思議である。有難いことだと感謝して生きて行こう。

 そう楽観農園という名称も、コロナ下の農園という意味かもしれない。不安な社会の中で楽観を持って生きて行こうという事だろう。命のぎりぎりのとことを見つめながら、すべてはなんとでもなる。ダメでもいいじゃんという思いだ。楽観がこれほど重要な時はない。これが現代のある意味宗教心なのかもしれない。

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