陸上部の記憶

高校時代は世田谷学園の陸上部に入っていた。練習は熱心にやった方だと思う。指導する人はいなかった。だから練習方法も全くの自己流で、ただ走っていただけだった。今思えば良い方法で練習していたら、もう少しは強くなれたのかと思う。ただ私には指導者が居ないで良かったなと思う。
陸上部に入部したら、部長と言う人から、長距離希望か短距離希望かと聞かれ、長距離希望と答えた。その日から長距離グループに加わり、練習を繰り返した。練習はまず準備運動をして、インターバル走を何本か行う。あるいは10数㎞走る。
無計画に気の向いたことをその日その日にやる。繰返しが日々の練習であった。世田谷公園に行き、10周して戻ってくるとか、玉川の河原まで行って戻ってくるとか、走ればそれでいいと居言うことだった。良く国士舘大学の陸上部の人達と一緒になった。
インターハイの全国大会に行く人は上の学年にはいたのだが、私たちの学年では一人もいなかった。今と会議員をやっている松本文明という人は陸上部の幽霊部員であった。世田谷学園の陸上部も駅伝には必ず出ていた。東京都では出場高校が80校ぐらい在ったのだが、大体はその真ん中ぐらいの順位だった。
私自身は競技に出たくて出ているわけでもなかったし、上位になりたいというような気持ちもなかった。私の目的はただ走りたかったと言うことだった。高校に行ってから、うつ病状態に陥っていた。それで運動でもしたらどうだろうかと言うことで陸上部に入った。
走ることで気分が良くなるかも知れないと考えた。それはある程度良い効果があったのだと思う。記録は1500mで4分50秒ぐらいだった。800mで2分03秒だった。記憶だから正確ではないかも知れないが、いずれにしても陸上部にいたなどと人に言えるほどの記録ではない。
このタイムは選手とは到底言えないようなレベルである。上位の選手は1500mでは3分40秒を切る。つまり周回遅れである。800mでは1分50秒を切るのだから100mは遅れるのだろう。一緒に走ることさえ出来ないわけだ。普通の人よりは、早かったぐらいの所だ。
それでも練習はかなりやった方だと思う。ただ分からずデタラメに練習をしていたからか、足を痛めてしまい、最後には走ることが出来なくなってしまった。くるぶしのところが大きく腫れてしまった。直ればまた走り、また腫らしていた。昔の靴は悪かったのだと思う。
世田谷学園のとなりにあった井福病院に行った。学校の校医でもあったのだ。院長先生があなたの身体にはとても無理なことだから止めなさいと言われた。それでも止めないで、普通は3年になると余り部活はやらなかったのだが、高校の卒業まで一人で練習を続けていた。
確かに虚弱児だったのだ。体重は43キロぐらいだった。骨も細く、無理な運動に耐えられないと言うぐらいのことは自分で分かっていた。それでも、練習に身体が耐えられないと言う理由で、陸上を止めると言うことが出来なかった。結局ずるずると高校を卒業するまで続けた。
前回の東京オリンピック後で金メダルを取った女子バレーボールの大松監督の鬼の練習が注目されていた。根性である。根性さえあれば何でもできると言うことになっていて、弱いのは根性が無いからだと言うことになっていた。私も厳しく日本一の練習をしようと思っていた。
同学年では最後まで染谷君と安藤君と私の3人が長距離を続けた。名前を今でも覚えているくらいだから、良い仲間だったのだが、卒業後どうしたかはまったく分からない。安藤君の家は学校から一つ通りを挟んだくらいの場所で鉄工所をしていた。6年間の付き合いだから忘れるはずもない。
鉄工所の隣には小さな食べ物屋さんがあり、学校帰りにそこによって焼きそばやらラーメンを食べた記憶がある。本当は学校帰りに食べてはいけなかったはずだが、なんとなくそこで食べるのは黙認されていた気がする。注意された記憶は無い。
運動部で何かを学んだかと言うことは無い。根性が着いたなどと言うことも無い。良い思い出とも余り思わない。何かを耐えて生きていたので、どうしようもなく、致し方なく、日常にいたたまれなくて、陸上部に入って練習に明け暮れて耐えたと言うことなのだろう。暗いばかりの高校生であった。
その意味では走ることで助かったとも言えるのだが、陸上部で学んだと言うことは何もないと言いきれるだろう。陸上部に入らないで一人で走ることを選ぶことも出来た。何故そうしなかったのかと今では思う。そんな50年以上も前のことを後悔しているわけではない。
なんとなく思ったのだ。今でも運動部に入部すると人間の修養が出来るようなことを考えている人がいるのではないかと。それは明らかな間違えだと言いたい。体験者として言えると言うことなのだ。上下関係とか、暴力的指導とか、先輩に対する言葉遣いを教えられるということは、まったくない方が良いことだった。
後に世田谷学園の教師をしたときには美術の指導をした。それは結構楽しかった。生徒が授業を終わると必ず来るので、毎日6時頃まで一緒に何かしていた。美術部員の中には芸大に行った生徒もいた。彼はその後私の個展を見に来てくれたりしていた。今どうしているかは分からない。
生徒に何かを指導すると言うより、自分も一緒に絵を描く。それしか出来なかった。それが一番良いことだと考えていた。事業がないときは学校でいつも絵を描いていたわけだ。授業でやることもかならず自分も一緒に作った。その頃大理石モザイクを覚えた。
滋賀県にある八橋大理石まで行き、八橋先生から廃棄された大理石をもらったこともあった。八橋先生は芸大の教授だった。立派な工房があり、そこで泊まり込んで自分の作品を作っている人も居た。とても良い雰囲気の昨夏の居る工房だった。
八橋先生のような作家指導が理想的だと思えた。何かをしろというのでは無く、一緒に制作をすることを通して、何か伝わることがある。それは生徒との関係でもそうなのだともう。陸上部も本気で競技する人の近くで練習すると言うことが、一番良いのではないだろうか。
学校の教師が指導するよりも、そうした一流選手から指導を受ける機会を作ることが良いのではないかと思える。しかも、その選手は生徒を強くする指導はしない。自分の練習環境のそばに生徒を受け入れてくれるだけで良いのだと思う。
生徒は自分自身が強くなりたいのであれば、選手を見て学ぶはずだ。強くならないでも良い。何かを学べばそれで十分ではないだろうか。運動部が教育的に、意味あるものだとは到底思えない。健全な肉体に健全な精神が宿るとは言えない。学校では運動部など辞めて、農業クラブの方がよほど良いだろう。