1番でなければいけないのです、。か。

   



 資本主義における技術開発というものは、1番でなければならないのは当たり前の事だ。二番目であれば、もう特許が取れない。特別な新製品にならない。しかし、これが資本主義のくだらなさなのだ。次の世界では、二番目でも意味は十分にある。

 資本主義と言うのは、つまらない競争を優先する考え方なのだ。競争させなければ、人間の能力は高まらないと割り切っている。オリンピック選手は確かに素晴らしい。しかし、市民ランナーも違う意味で素晴らしい。個人個人にとっては自分を高めることが重要で、他人と較べる意味は小さい。

 「コンピュターの計算速度が世界1位であることの意義は何か」「このコンピュターを利用するのは誰か」「計算速度が速いと、どんな効果があるのか」など、事業仕分けの議員たちからは質問が行われたが、資本主義の競争の意味にまで踏み込んではいなかったのだ。

 文科省の官僚たちは、世界最高レベルの研究のためには最高のマシンが必要といった抽象的な、いわゆる官僚国会答弁を繰り返すことしか出来なかった。 そこで蓮舫議員が2番ではダメなんですかと、詰め寄ったのだ。その後この言葉は切り取られ一人歩きをした。

 回答としては、先端技術の特許の問題だから、2番ではダメなのです。と言うべきだった。それでもあの時代は日本が最先端技術に挑戦し、一番を狙っていたのだから、今から考えれば驚くべき事だ。もうそんな挑戦を官民協働で行うようなことは、今の日本では独自にはできない。

 もし特許が確立できれば、あらゆる産業に於いて使われることになる。コンピュター革命の先端技術が世界中で使われるようになる。あの頃が日本が遅れ始めるときだったようだ。完全に日本は革命に乗り遅れ、2番目から、50番目ぐらいになり、IT後進国と言われるようになった。

 昔東郷青児という画家がいて、自分の画風を特許申請をするという話を聞いたことがあった。よく考えてみたら、デザイン意匠登録のことだったのだろう。実際には具体的なものに付随しない絵では登録できない。そういえば扇子に描かれた東郷青児の絵はあった。

 そもそもこの話は、東郷青児氏の絵をデザインだと馬鹿にするための作り話だったのだろう。二科会のドンと言われていた。ドンファンでもあったようだが。芸術院会員であったのだから、日本の藝術の考え方のゆがみがよく表れている。文化勲章ではなく文化功労者だったと思う。

 実際の所東郷青児氏の絵を踏襲したのは、娘さんの東郷たまみさんだった。今見るとどちらの方の絵なのか分らないぐらいに良く似ている。随分高額の絵だったのだが、下品な絵だと私は思う。画格が低く見ていて恥ずかしくなる。良くも親子でこんな絵を描いたものだと思う。あえて失礼とは思うが書いてしまう。

 商品絵画の時代というのは、こういうものなのだろう。最近の絵画はほぼ東郷青児を踏襲したようになっているからだ。日本の絵画文化が地に落ちた。日本が下降線にあるということなのだろう。二番で良いんだと言える為には、文化的な自信がなければ不可能なことだ。

 特許を取り保証をされなければ、安心が出来ない。技術開発のお金も出ない。今や研究自体が、商品化と結びついていなければ、研究費が出ない。学問の世界も絵画の世界と同様に商品化されたのだ。江戸時代に育まれた、日本の文化レベルが、今や商品化されているに過ぎない。

 新しいものを生み出す能力が日本人から消え始めている。売れたもの勝ちの世界。お二人は商品絵画の先駆者で、今の時代はこんな傾向の絵が蔓延しているとも言える。まあ、売れないわたしのようなものでひがんでいるとしか受け取られないのだろうがそれで構わない。

 資本主義と言うものは藝術分野まで、2番ではダメなんですか。と言うことになぜならないのか。二番煎じの美術が日本の商品絵画の世界だろう。確かに贋作ではないが、日本画の大半のものは模写のようなものだ。ある形式的な画面を再現する。

 あるいは現実をお手本にして、写実ということになった。ものまねではダメですということでは日本画など成立しない。師匠の絵を模写して学ぶのが日本画の学習法である。それが商品絵画には一番の道なのだ。師匠の大家が画商に絵を渡すときに、そえて弟子の絵を渡す。

 コンピュター革命後の世界では、商品絵画はコンピュターがいくらでも描いてくれるだろう。ものまねならコンピュターの得意分野である。人間がやるべき事は、行為としての絵画制作だ。藝術行為としての、人間の精神の問題になる。コンピュター革命後の世界では出来上がった絵面の問題は装飾品としての意味しか無くなる。

 行為としての絵画制作には、一番も2番も、順位はない。それぞれの深さと言うことになる。あるとすれば自己記録である。その人がその行為によって、悟りまで至れるかであると、言い切れば分りやすいが、もちろん宗教的な信仰の問題でも無い。

 行為の深まりを絵面が表わしているだろうと言うことだ。中川一政氏の作品を見ていると、人間が深くならなければ、絵が深くならないと言うことが分る。では人間が深くなると言うことはどういうことか。見る力が深まる。そうすれば見えなかった世界が見えてくる。

 行為としての絵画制作を「私絵画」と呼ぶことにした。コンピュターの出現によって、絵画の意味が根本から変ると考えたのだ。今のところ、コンピュターがやるような作品を、人間がやっているがそれは移行期の現象だ。コンプーターと競争して1番となろうというような作品がかなりある。

 順位などない世界が本来の人間の暮らしだ。普通に充実した日々を送る事ができればそれで十分なのだ。その結果としての生産物に優劣はない。それが自給農業である。お米を作れば食べることが出来る。自分で作ったお米を食べれば、生きる元気が産まれる。

 自分が描いた絵画が世間的にどう評価されるかなど、考える必要もない。そういうことを考えれば、ゴッホでもロスコも ド・スタール 、も死ななければ成らないことになった。何故理解されないのかという苦しみの中に落ち込むのだ。

 十分に生きればそれで、自分をまっとうしたことになる。どこまで十分にやれるかだけが問題になる。それはダメな自分をも含めてのことだと思っている。ダメというのは人と較べるからそう思うことになる。人間はそもそも誰だってダメななのだ。誰でも一番ではない。

 ダメな絵を一枚描く。ダメであっても、自分にとっては掛け替えのない一枚になる。願わくはその絵が他の人を明るくさせるものであればと思う。元気を産むものであればと思う。そのためには私自身が前向きで元気でなければならないと考えている。

 

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