大野港と医王山を描きに行く。

   


 
 朝からすぐ大野港に絵を描きに行った。川沿いが少し広く船溜まりになっていて、船がつながれているような、その姿は昔と変わらなかった。町の様子も昔とあまり変わっていなかった。驚いたのは若い女性の観光客がぞろぞろ歩いていることだった。

 50年前には考えられないようなことだ。古い町並みの残る場所が魅力的なのは確かだ。漁船も多いけれど、レジェー用の船もあるようだ。ともかく港の様子を描いてみようと描き始めた。小さな漁港の様子は絵を描きたくなる魅力がある。

 50年前の漁港を描くのは記憶である。あの橋の上から見た漁港の姿は記憶に鮮明である。描いたのは反対側描いた。橋の上からはかけないから、反対の位置から描いた。自分の中の漁港はいつも金石港である。学校に行かないで、ただ港に行ったことが何度もある。北鉄の電車に乗れば、ともかく行ける。終点からしばらく歩いた。

 駅のところに小さな売店があって、そこで飲み物とパンのようなものを買って海のほうに向かった。当時は今のようなコンビニというものがなかった。駅で何かしらを買って、海の方向に適当に歩いた。目的はないのだから、ただ歩くだけでよかった。

 絵を描いているとあの時の気分になっていた。絵を描くというのはどこか不思議だ。突然時間を移動している。昔の私が絵を描いている。そうか昔絵を描いたところに行くとこういうことが起こるのか。ずいぶん雨が降っていた。雨が降る日に絵を描くのは好きだ。

 雨はいろいろのことを思い出させてくれるのに都合がいい。よく内灘に行ったのは射撃訓練場の退避小屋だったと思われる、ドーム型のコンクリートの建造物があった。その中にいると何となく落ち着いたからだった。海岸で立木を集めて中でよく焚火をした。

 絵はいつものように描いていたら、午前中で終わってしまった。それで午後は医王山に行くことにした。医王山は美術部のみんなでよくハイキングに行った山だ。山の入り口に人が居て、入山料を徴収していた。そこが私有地だかあということようだった。こんな山はほかにはなかったので、行くたびに不思議な気分だった。

 雪の深い時期にスキーに行ったこともある。今はスキー場があったが昔はそういうものはなかった。医王山の頂上までスキーでラッセルで登り、頂上から滑り降りたこともある。般若さんが連れて行ってくれた。般若さんはそういう面白そうなことにいつも誘ってくれた。

 医王山で驚いたことは金沢大学が医王山の入り口に移動したことだ。ここに移動したということがはっきりと自覚できた。大学のさらに入り口は大きな住宅地になっていた。こんなに変わった場所というのもめったにないだろう。

 でも大学の中を通り抜けてその先に行くと、農村になった。その時、突然懐かしい気分になった。そうだこの山間の小さな田んぼを見て、こんな暮らしをしたいものだと、学生の頃考えたことだ。その景色と記憶が連動していて、思い出したこともなかった記憶が、田んぼの情景を見て突然現れた。

 そうだこの田んぼを見て山の中に田んぼを作り暮らすということを妄想した。なぜかそんなことを学生の頃から夢見ていた。フランスに行く前にそういうことを考えていたことに驚いた。すっかり忘れていたことだった。医王山に行かなければ、思い出すことはなかっただろう。

 その田んぼを描いてみた。ここの田んぼは今でも魅力的な田んぼだ。あのころから、50年以上の年月が流れている。変わらず田んぼである。多分江戸時代から田んぼだったはずだ。この先はどうだろうか。いつまでも田んぼとは言えないかもしれない。

 大きなユンボで数人の人たちで、田んぼの側溝を直していた。あんな大工事をするのだから、当分は田んぼだろう。歩いて大学に通えるくらいの位置に田んぼがある。田んぼをやりながら大学に通うというのは悪くない。勉強をし直すなら、畜産か、発酵だ、などとまた妄想をしていた。

 だいぶ学生の頃考えていたことを思い出した。それで帰りに卯辰山に行った。卯辰山に下宿していたのだ。私は中腹だったが、さらに奥から大学に通っている男がいた。その中腹にあった家が、廃墟になって残っていた。最初に乗せた写真である。

 あの2階の窓のところが私がいた部屋だ。私がいた時だって崩れそうな家だったのだが、こうして残っていたことには驚いた。窓の中にやぶれた障子があるのまで当時のままである。もう危なくて中に入ることもできない状態だった。おばあさんが一人暮らしだったから、なくなられてそのままなのだろう。

 あの頃はこのあたりに家はこの一軒だけだったのだが、今は大きな邸宅がいくつもある。何となく高級住宅地だ。昔、小さなスナックがあった場所は立派な料理屋だった。今思えば、大学までよく歩いたものだ。歩くのは好きだったから、別段大変だとは思いもしなかった。

 歩くということでは、卯辰山の上には水族館があった。日本で一番標高の高いと書いてあった。そしてその奥にはゴルフ場があった。私が暮らしていたころ、水族館もゴルフ場も閉鎖になった。閉鎖した後のゴルフ場にはよく遊びに行った。

 紙飛行機を飛ばしに行った。誰の紙飛行機が長く飛んでいるのかの競争をしていたのだ。美術部の部室にみんなで集まると、ゴルフ場跡まで行こうということによくなった。広いゴルフ場に誰もいないのだから、広々として最高の場所だった。

 打ち下ろしのテーグランドから、紙飛行機を飛ばし、1分20秒、2分40秒と競争をしていた。ある時私の飛ばした紙飛行機がふわっと舞い上がった。そのままどんどん空高く上がり、見えなくなり、空に消えた。それでもう紙飛行機比べは一気につまらなくなり、2度とやらなかった。

 そう今はその場所が、県民健康公園というようなものになっていた。売店まであったから、それなりに人は来ているのだ。しかしその売店はかき氷を出していた。もう肌寒いのでさすがに食べる人はいない。卯辰山でもよく絵を描いたのだが、今回は絵を描きたくなるような場所ではなかった。

 今日は能登のほうに行ってみるか。などと思うがどうも定まらない。こんばんは同窓会である。何人ぐらいの人が来れるのだろうか。数は少ないと思う。感染しない宴会にしなけば。さすがに医療関係の人は来れないだろう。3,4人なら安心だが。

 - 楽観農園