カジノは愚民化政策そのものだ。

   



 ローマ帝国では剣闘士の殺し合いを見せることで、住民を愚民化したと言われている。殺し合いを見世物にして、強烈な刺激を与えることで階級社会問題を忘れさせたのだ。独裁者の暴虐に目をつぶらせ、ローマの形式民主主義を守るためだったのだろう。

 アベ政権はカジノでの憂さ晴らしを奨励することで、一向に良くならない暮らしの憂さをごまかせないかと考えているのかもしれない。パチンコやもそうだろう。パチンコ屋でリフレッシュしている人はいるのだと思う。だからあんなに繁盛している。
 新型コロナの流行をみれば、カジノなどダメだと示している。この混乱の中で、進められたらたまらない。あのカジノ汚職事件も埋もれかかっている。ごまかされないように今こそ監視しなければならない。
 現状では大阪、東京、横浜が候補地になりそう。大阪ではオリックスが中心になり20社に出資を要請。NTT西日本や、JR西日本が出資をするらしい。こんな状況の中でもかなり進んでいる。
 パチンコ屋は石垣島でさえ3軒ある。悪所を目くじら立てていけないとは言わないが。悪所は悪所でなければならない。健全娯楽というようにごまかしをしてはならない。働かないでお金を得ることは良いことではない。こういう意識が健全であると言う倫理を育てなければならない。改めて政府がカジノを解禁すると言うことで、賭博に対する意識が変わる点が一番怖い。
 不労所得は地獄への階段だ。いくら経済がダメだからと言って、カジノを政府が奨励するようなことは異常事態だ。この異常を異常と感じないところがアベ政権の特殊なところだ。資本主義崩壊の音を聞く。

  資本主義経済は成長要因が失われたときに終わる。三つあると言われている。技術革新。新産業の創出。人口増加。消費が増大して拡大再生産することが経済成長ということになる。現在残るものは技術革新であるが、日本ではその三つの矢すべてが失われている。

 残るは軍事産業依存である。カジノも同根である。どちらも消費をどれだけでも増やせる産業である。生産物から経済が離れて行く。国家間の対立を高めて、軍事力の増強を主張すれば、すぐ調子に乗る軍国主義者はごまんといる。辺野古の基地建設の莫大な費用は、末期資本主義では経済活性化なのだ。海底の地盤が悪ければ、もっとお金が使えて嬉しいぐらいなのだ。

 アメリカにしがみつくことで、一番重要な国の元である食糧自給を捨てさせられた。命綱を手放すほど追い込まれているのが日本である。食べ物を捨ててまで、しがみつく価値が一国主義アメリカにあるとは到底思えない。食べ物を捨てた国には当然未来はない。世界の歴史はそう教えている。

 そもそも食糧を国際競争すべきものと考えてはならない。食料は資本主義経済とは関係がない。人間の生存権に関わる基本条件のひとつである。その意味で空気や水と同じなのだ。余所の国が口を出すと言うことはできないものだ。ところが、食料を独占して売りまくろうというのがアメリカ経済である。これを拒絶できないのが、アベ政権である。

 日本の経済は国際競争に負け始めている。すべての分野でそうした状況が見え始めている。特に農業は競争などあってはならない分野だ。日本の有利さのようなものは消えた。安い労働力。勤勉で均質な労働力。まねて改良する能力。周囲が海という地勢的な有利さ。すべては終わり始めた。

 暮らしの必要としている衣食住が安定した社会では、生活必需品ではなく消費者を惹きつけるあらたな商品開発でなければ、経済成長は見込めない。変化のない主食作物では付加価値がつかない。まさにカジノとは対極にあるのが、第一次産業である。

 そこで、資本主義の終わり始めた日本では教育や医療、そして生活に必要な水や電気やエネルギーを受益者負担に加え、公共事業や生存権に関わるものを受益者負担に加え始めている。もう経済成長が見込める分野が無いからである。

 これでは生活者はたまらない。政権への不満が高まらないように、カジノ賭博を国民に与えようと考えた。腹黒い政権である。国民を上級国民と下層国民に分けて、下層国民は文句を言わず従うだけでいいと言うことになったのだ。

 上級国民だけで都合良く国を動かして分け前を独占して行こうという考えだ。アベ政権のやり方はまるで薩長の明治政権のようだ。下層国民にはカジノ娯楽を与えて憂さ晴らしをさせておく。そうでなければ暴動が起こるのかもしれない。

 政治への眼をそらす。すでに政治への関心は見事に失われた。誰だって、桜を見る会にはいらだつと思っていたがそうでもない。そんなものだと受け入れている人がごまんといる。招待される人になれば気分がいいのか。テレビで破顔するあの芸能人の面々を思い出すと胸くそ悪い。誰があんな連中の芸能を楽しめるか。招待されたくもない。

 人間が本来持つべき夢は自分という人間を全力で生ききると言うことだろう。希望の失われた社会日本では、人間の希望の芽を摘んでいる。希望のない人間が希望らしきものと感じるのがお金である。お金がお金を生むのは生産ではない。資本主義は実体経済を失ったと言うことだ。株でお金を儲けることが生きる夢のはずがない。

 人間が自分らしく生きるという夢を描くと言うことが、カジノで一攫千金の夢になってしまった。この時代に本当の夢を描く人間には、上級国民には成れないと言うことになる。上級国民になるのは夢ではなく、アベを忖度するという踏み絵を踏んで夢を捨てた人たちだ。金儲けのためのアベ踏み絵を、ああ、アベアキエさんだったか。さすがに踏むわけには行かない。

 結果がお金だけであるのなら、カジノも人間の日々の努力も同じと言うことになっえしまう。株式投資がそれだ。不労所得である。資本主義が根源的に問題なのは人間の価値をお金で換算してしまうところにある。そんなひどい仕組みは当然終わりを迎えるほうがいい。

 人間の価値はそうした資本の価値基準を超えたものだ。人間の充実と言うことはお金だけでは測れないものだ。人間の価値は共通基準はない。その人自信が価値の基準を持つものだ。人間の幸せと言うことを考えてみれば当然そう言うことになる。

 かけがえのないものは私には絵だ。お金にはまるでならないが絵を描くことだ。傍から見れば、馬鹿馬鹿しいようなことだがこれに必死になれると言うことだけでもありがたい。生きている気がする。カジノに行くよりはるかに面白い。

 資本主義が崩壊してゆく。厳しい後退戦が続くことだろう。後退戦には従軍カジノが必要なのかもしれない。次の時代の皆さんには申し訳ない思いだ。大変だろうと思う。はやくこのいくさから退くことだ。

 日本ほど豊かな国土はない。幸い、自給自足できる土地も空いている。その意味では恵まれているとも言える。その一抜けた人達で、豊かな文化国家を作り直せばいい。そう考えればいい時代が来たとも言える。

 

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