たて構図の絵を描く

   

 
 このところ描いた絵の中に5枚の縦て構図の絵がある。一応完成したつもりの絵だ。けれどももう一息という絵だ。余り時間はかけていない。この後もう少し描くつもりなので、並べて写真を撮った。何かやることがあるはずだ。

 風景を描いていると、滅多に縦て構図の絵は描くことは無い。意識しないと風景は横構図になる。日常生活では風景は意識しなければ横長に見えている。だから普通の風景画はペイサージュと呼ばれて横型である。Mサイズはさらに細長い長方形の形になる。Mはマリンでさらに横長になる。つまり、縦は意識されていない。

大里の田んぼ

 私がほとんどの場合描いている中盤全紙というのはヨーロッパの手漉きの紙から生まれた形で、ほぼPサイズである。555ミリ×750ミリぐらいである。手漉きのサイズだから、作るところですこしづつ違う。油彩画のキャンバスサイズで言うとP25号とP20号の間と言うことになる。

 東洋には伝統的に立て構図の風景画が存在する。そもそもヨーロッパで風景画が出てきたのは印象派以降が多い。ルネッサンス頃もないわけではなく、ベネチア派やオランダ絵画、には風景を絵にするものがある。

崎枝の田んぼ

 東洋画の掛け軸のように、風景そのものが主題になる絵は少ない。床の間に飾るので、たて構図が都合が良いと言うこともあるのだろうが、本当は床の間の掛け軸の絵は精神世界を表すものと言うことなのだろう。その家の魂というか、守ってくれる絵。

 日本家屋というものは床の間という別世界を家の中に持ち込んだ。一段高くなり、別の意識が宿る、改まった空間を作ったのだ。それは暮らしの中に、生活空間とは別の空間を持ち込んだ知恵だ。実に面白いと思う。

 床の間には普通は掛け軸というものがかけられる。その掛け軸は季節や催事ごとに掛け替えられた。気持ちを変える仕掛けである。その空間にふさわしいものが、立て構図の絵画であった。


崎枝の田んぼ 
 この絵には期待するところがある。天があり、地がある。その世界観を表現するものとして絵を考えるとたて構図になる。富士図などそういう絵だ。横構図が自分の存在する俗世界であれば、天という神聖と交流する世界を描くとすれば、立て構図になる。だから、床の間には立て構図の掛け軸が普通になった。

 左側の絵と同じ場所で同じ絵をもう一枚描いた。全く前の絵を意識しないで、もう一枚描いてみた。それは左側の絵が、なんか良いところがあり可能性を感じたからだ。このままこの絵を描き進めたら、たぶんそれも分からなくなるので、この絵はそのままにしておいて、もう一枚描いてみた。

 それはまだまだ、中途半端なところで終わっている。もう少し同じぐらいの所まで描き進めたら写真をとりここに並べてみる。今は前に5枚並べて立て構図の絵のことを考えてみている。


名蔵湾の田んぼ
 私の絵の場合、精神世界であるかと言うようなことは描くときには全く考えないが、何かしらそういうものは出てきている。構図を立てに考えるときに思考が少し違うような気がする。西洋絵画風に言えば、立て構図の絵の方が構成的になっている。構成を意識しているから立て構図を選ぶ傾向があるのかもしれない。

 ここでの構成とは下から上に上がって行く流れである。立て構図の場合、西洋画であれば、上から下への流れかもしれない。天にいる神と言う意識があり、天から下の自分へ啓示をを与えてくれるという意識であろう。

 しかし、日本の伝統におけるものは、下から上へ昇るものである。下に自分というものがいる世界があり、たどって天に至るという気持ちである。アンドレマルローが国宝の那智の滝図をみて、この滝は登っていると語ったという。滝は昇るものになり、神聖な存在になる。


宮良川上流域
 
 物理的に言えば、滝は落ちてくるのだが、滝を信仰するものには立上ってゆくものである。だから滝は龍の天に昇ると言うことに例えられる。 絵を描く場合、皮がであれば、道であれ、私は登って行くという意識を持ってしまう。

 どこかへ通ずるという思いである。もちろん横構図でもそういう意識はあるのだが、立て構図の場合意識が明確になる。それ故に立て構図の絵の方が、自然を信じるような精神になるようだ。自然信仰表明のような意識だ。

 この意識は古い時代、例えば縄文人であれば、自然を畏怖するような意識として、当たり前にあったものではないだろうか。先日与那国島で一番高い宇良部岳231メートルに上った。その頂上は御嶽のようになっていた。煙を炊く場だけがあった。

 煙を燃やし、天に祈りを伝えたのだろう。日本人の自然にある山岳信仰の原点のようなものを感じた。祈るしかないような暮らしの中で、人間は何万年と生きてきたのだ。今や人間は自然への畏怖の念を忘れて、暮らしている。そして文明は崩壊に近づいている。
那智の瀧図
富士図 秦致貞『聖徳太子絵伝 黒駒太子』

 たて構図の絵の話であった。高いところに昇という意識である。私は描く場合ほぼ俯瞰的に地上を見る。地上は上から見ているようであるが、実は上に登って行く絵地図のような意識がある。必ずあるとも言えないのだが、結局はそうなっていることがほとんどである。

 特にたて構図の絵を描こうとしたときにはその意識が強くなる。しかし、私の絵を見てくれた人のほとんどの人が、この川は上から流れてきているのですねと言う。確かにそういうこともあるが、必ずしたから上に上っている。

 一番下に描いている自分がいる。そして田んぼや、森を抜けて、天に至る。こういう意識がたて絵の場合はある。

 - 水彩画