「サル化する日本人」内田樹著

   

  石垣島大里集落の田んぼ。大里は山のくぼみのような所に田んぼがある。天水田んぼのような、天候によっては出来ないときもあるのではないかとみえる田んぼもある。

 内田樹の研究室というウエッブサイトがある。思考がとても深い人である。最近見つけてしまった。今まで何故知らなかったのかと思った。それで三冊の本をアマゾンで取り寄せて読んだ。興味がある分野も似ている。かなりの部分同じ考えである。

 当然私より思考が深く、論理が明快な人である。そのおかげで学ぶところが山ほどあった。自分がやってきたことの意味や位置づけが出来た気がした。養老孟司氏と思考法が似ていると言うのが第一印象である。

 すべてを自由にお使いください、という考えらしい。私の絵もどのように使っていただいてもかまわないと書いている。何かに有効に使えるならありがたいぐらいだ。石垣島観光に役に立つような絵だといいのだが。どこだか分からないような絵だから、私の絵を見て観光に来た人がいれば詐欺になってしまうかもしれない。

 「サル化する日本人」「農業を株式会社化するという無理」家の光協会「ローカリズム宣言」 「成長」から「定常」へ。論理的で説得力がある。こんな人が、こんなに似たことを書いているなら、今更私が書く必要などないのかとさえ思うところもある。これは言葉の調子で、本当にそう思うほど私は謙虚な人間ではないのだが。

 余りに考えが似ているので、私が内田樹さんを剽窃しているかのようだ。まあ、剽窃もご自由にどうぞということだから、問題はないだろうが。それほど考えが近い。しかしひとつだけ根本で違うところがある。

 それは私は実践に基づいたことを書くことを基本としてきた。例えば、ローカリズム宣言では、移住の分析のようなものが書かれている。とてもわかりやすくて、説得力がある。しかし内田さんは移住はしたことはない。神戸の都会暮らしのようだ。

 確かに分析力はすごいが、実践してみないと分からないこともあるのだがとも思う。若者が気軽に移住をすると書いている。私の印象では簡単にあきらめて都会に戻るともみえる。私はそれは生活の技術上の問題が大きいと考えている。田んぼをやって自給出来るのは技術である。これは素人が乗り越える壁になる。

 何故田舎に行くのか。この命題には代わりに答えてくれている。ありがたいというか便利である。田舎に行く若い人の流れの、文明論的分析である。田舎に行く説明にはなるが、田舎で暮らす実技書ではない。私の場合は田舎で暮らす方法論を書いてきた。

 30年前に自給自足のために山の中に移住をした。そして、一人でシャベルとのこぎりぐらいで、山を切り開き自給を達成した。やれると思って始めたわけではなかったが、案外にできたのだ。そこから、みんなの自給ということへと進んだ。その実践者としての実技に対する思いがある。

 技術がないから、自給に挫折すると思っている。手仕事の技術があれば、半分の時間で作業がこなせる。農作業の手仕事の技術は伝承がすでに途絶えている。発掘して、実践してみない限りわからない。手で行う田起こしはどうすればいいか。シャベルで出来るのか。こういう所が肝心になる。

 内田さんは私とほぼ同世代である。同じ時代を生きてきた人だと思うところがある。違いは内田さんはなんとかなった人で、私はどうにもならなかった人生を生きてきた人間である。

 どうにもならない日々を生きたことを、良かったと思っている人間である。どうにもならないので良かったと思っている。おかしいのだが、どうにもならない道の実技書を人にもお勧めをしているわけだ。それが最近はどうにかなる人が、自給の道に入り始めている。どうにもならないのだが、こっちの方角もあるよと言う実用書だ。

 どうにもならないものだと言うことから、いろいろ生きると言うことをひねり出した。世間的な能力競争では大分劣る。劣るとしても生きていかねばならぬ。負け犬の遠吠えを、理屈化しているのだとおもう。居直って言えば、大体の人は私と同じ劣る人なのだ。劣って何が悪いのかと思っている。農業は資本主義と関係がない。能力競争など無い。

 人間が自給自足で生きることは、少々劣っていようがいまいが可能だと言うことだ。人類はそうしてズーとやってきた。私はそれを身をもって証明したつもりだ。これが劣る人間の安心立命である。

 具体的に書けば、それが「地場・旬・自給」のあしがら農の会を始めたことである。みんなでやる合理性を追求してきた。一人で出来たらみんなでね。そして、その安定した発展を願い石垣島に引っ越すことにした。あしがら農の会のためには始めた人間がいつまでもいたままでは、次につながらないと考えた。

 どこの農業の共同体的活動も、中心人物が死んで尻すぼみで終わる。それを避けたかった。活動を始めたときから考えたのは、私は中心にいること自体を、どうにかして避けようとしてきた。しかし、そうは言っても中々難しいものがあった。

 農の会の運営で感じたのは農業に関心を持つ新しい人達は、言われてやるのは余り好きではないと言うことだった。自分勝手にやりたいという人。何か利用できるかもしれないという人が多かった。そういう人達で、どう気持ちよく協働できるか。

 農の会を尋ねる人は多種多様で、すべて種類の人だ。農業に興味があっても自給的生活に興味を持つとは言えない。先入観で見ることはできない。そのありとあらゆる人を拒否しないと言う協働でなければ、次の社会のためには成立しない。しかも、小田原ぐらいがちょうど良いという、考えで場所決めをした。

 利用したいという人は何も利用できないので、いつの間にか離れて行ってくれる。そして、なんとなくゆるい空気感が肌に合うという人が残って行く。ゆるゆるの会だから、運営の明確なものはない。ないから、明確なものを求める人には辛いところはあるだろう。人間には書かれたルールがないと動けない人が多い。

 つまり内田樹さんの農業の共同体の意見は、実戦した私にはかなり違うというと感じられる。どこまで曖昧であり続けられるかが次の時代の組織論である。それは資本主義が終わるという予感に基づいている。この認識は同じである。ルールに従うというのは競争の論理には便利なのだ。効率とか、合理化とか。農業も企業的論理が持ち込まれる。

 農の会のゆるゆるは江戸時代の部落の思想をから導き出した。時間をかけると言うことである。話し合いは深夜にも及ぶ、何も決まらない。明確に決まることはほとんどない。結論ではなく、なんとなく充分に話したという共感だけを重視した。

 心底話し合える人がそこにいるという状態が重要と考えていた。まあそんな何も決まらない状態に耐えがたいと言うことで、集まりに人は徐々に来なくなった。それでも集まって決めなければならないことはあるので、志のある人は集まり決めごとをせざるえない。

 内田さんも資本主義が終わると考えている。それが歴史の必然と考えている。やはり同世代の方の感じ方だと思う。私は1970年にこのままではダメだと感じるようになった。大学闘争の時代である。

 絵を描くことにした。絵が好きだから絵に逃げたと言うことでもあるのだが、この時代に絵を描くことは、大学を占拠するのと何ら変わらないと主張をしていた。絵を描くことで自分の思想を伝える主張していた。

 夜中に旧生協にあったアトリエに押しかけてくる、中核派や革マル派と議論していたのだ。コンナトキニ絵を描いているおまえは何者だというわけだ。私が真夜中でも明かりを付けていつもそこにいつもいる。占拠している教室から退屈して出てくるので、いい話し相手だったのだろう。変えられない社会をどうすればいいかと言うことである。

  内田氏はこう書いている。「1970年代に左翼運動から召喚した過激派の青年たちの一部は就農をめざしました。帝国主義企業なんかに勤められるかと言う潔癖な嫌悪感からだった。」そのとき就農など考えなかった内田氏はどんな顔をして生きていたのかとは思う。

 内田氏は2011年神戸に「凱風館」を開設した。「武道と哲学の研究のための学塾」と言うことである。学塾の指導者と言うことだろう。この点には大いに疑問がある。先生と呼ばれてきた人の発想に思える。指導者がいるという形が、すでに次の時代の方角ではないと言いたい。

 あしがら農の会で私が努力してきたのは、技術と仕組みである。誰もが技術と仕組みをもって、自立して未来に生きて行くことである。そのためには偉そうな先生が指導するなど、方角が違う。この点では内田氏を信用ならないなと思うところもないとは言えない。

 普通はこんなことは書かないことなのだが、今回は内田樹と言う人に刺激されて、書きすぎた嫌いがある。今度内田さんに私の書いた実践記録の本を送ろうかと思うが、どうだろうか。次の実践者にバトンを渡してくれるかもしれない。

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