与那国島は自給生活者の候補地ではないか。
祖納集落、ここに与那国島役場がある。
与那国島が美しい島だとは聞いていたが、確かに美しい島だった。起伏があり、海岸線は変化に富んでいて見事だ。島の大きさは周囲27キロほどである。車だと30分ほどでどこにでも移動できる。石垣島からは飛行機で1時間ぐらいだ。
仕事で出かける人は朝の飛行機で与那国まで行って、夕方の飛行機で戻る。飛行機にはそんな様子の人が結構乗っていた。飛行機は小さめのもので、50人ほどの人が乗っていた。満席ではないが、空席も目立つほどではなかった。飛行機は石垣からは1日三便。那覇から一便ある。
与那国島も、石垣島もかなりの観光客が来ているようだ。そのために、石垣市長が昨日、できるだけ来ないようにと言う記者会見をした。正直迷うところである。個人的には石垣島には来て欲しいと思う。それが感染につながるのはこまるが、気をつけて行動して貰うことなら、来てくれた方が嬉しい。
与那国島には田んぼがある。120ヘクタールの水田があったそうだ。ところが現在の耕作面積は30ヘクタール。この田んぼを見たいというのが主たる目的である。120ヘクタールの田んぼがあると言うことは、1万2千人の人が自給できる可能性のある島である。そのうち、90ヘクタールもの田んぼが放棄されている。
与那国島は人口1700人。1500人を切っていたのだが。自衛隊が来てから1700人を超えた。しかし、その後は徐々に減少を始めている。自衛隊関係者は300人ぐらいはいるのだろうか。このまま行くと、与那国島は自衛隊と与那国馬の島になるのではないだろうか。そうならないためにも自給生活者を受け入れたらどうだろうか。
田んぼは比較的最近放棄が進んだようだ。まだすぐにでも出来そうな畦のある田んぼが沢山あった。この時期何もされていない。石垣島でも、宮古島でも農地が放棄されているという様子はほとんどない。与那国島では田んぼの耕作放棄地が増えている。地域が様子が農地を見ると分かる。
直接たんぼをやられている地元の農家の方にお話を伺うことができた。後継者がいないので、放棄地が増えているのと言うのだ。高等学校がないと言うことは若い人が出て行くことになる。それは家族全体で出て行くことにつながる。
与那国島の田んぼは見たところでは石垣島よりも、西表島よりも条件が良い。島には中央部に200メートルほどの山がある。海岸線に丘陵があり内陸部が窪地になっている。その窪地には山からの川が流れていて、田んぼが可能なのだ。
土壌は琉球石灰岩ではあるが、赤土も充分にあり、代掻きをした田んぼでは簡単には水は抜けていない。雨が降れば元田んぼはすぐ水たまりができている。植物は旺盛だから、腐植も充分ある。風さえ防げればそれなりの収穫が見込める。
海岸線の丘陵が風邪を遮ってくれているので良い田んぼが多い。台風の良く通る場所ではあるが、かなり被害が軽減されていると思われる。古くは天水だけの田んぼも多かったそうだ。今はもちろん天水田は耕作されていない。今の面積であれば、水も充分あるとみていいだろう。
気候は温暖で、雨が多い。耕作地放棄地がある。ここなら住めそうだという、場所がかなりあった。新規就農者には悪くない場所ではないか。和牛を飼っている牧場はいくつかあるようだ。だから牧草地は広がっている。田んぼもだんだん牧草地に変わって行くのかもしれない。
島中に道路が張り巡らされている。電線もかなりの場所まで通っている。そして水もあちこちの場所で湧いていた。ここに住みたいというような、良い場所は何カ所もあった。ホテルではネット環境は光回線で普通に早かった。
それにしても、島は寂しい様子である。様々な施設が閉鎖になっていた。民俗資料館も今はない。民具体験施設も閉鎖になった。農地も次第にあれてきている。閉じているお店も多かった。離島の寂しさのような空気が広がっていた。かなり危うい感じがした。
住民投票で自衛隊の誘致が決まった。これは衰退の第一歩ではないかと思う。自衛隊が誘致されれば、高校が出来ると言う噂が流されたそうだ。島を自衛隊に託すという選択をしたことで衰退が始まったと思う。あれほど美しい島に他の選択はなかったのだろうか。
しかし、それも住民投票の結果であるから、仕方がないのかもしれない。自衛隊以外期待できない気持ちだったのかもしれない。石垣島はそうなってはならない。
元気なのは与那国馬と山羊。人なつっこい山羊と遊ぶことが出来た。この山羊は寝転がってじゃれるほど遊びたがっていた。女の子が与那国馬と海で泳いでいたのは印象深い景色だった。ときどき馬と散歩に来ているのだそうだ。この時期に泳いでいるのだから、元気だ。確かに海開きは終わったが、まだ泳ぐには早い日だった。
与那国は「とぅんぐだ」と言う伝説がある。合図があると島中の働き手が、島の中央部にある田んぼに集まる。集まれなかった人を殺してしまったというのだ。人減らし伝説である。「とぅんぐだ」の田んぼは中々良い場所にあった。今は牧草地のようになっていた。
こうした伝説がいかに嘘であるかを見たいと思って出かけた。まず、合図があって走って集まるとして、どんな合図が可能か。どこからでもみえるのろしは可能か。木でも叩いて音を出しただろうか。島を巡り歩いてみて、合図はどう考えても不可能である。三つある集落が互いにみえない状態。音も聞こえない状態。
ではどうしてこういう伝説ができたかである。本来の与那国島はちょうど良い状態で収まっている理想郷だったのだ。自分たちが理想郷に暮らしていると思われると、人が移住して来ることになるので、伝説を流布して島に来る人を制限していたのではないか。
もう一つの可能性は島津藩の人頭税は過酷を極めた。それに対する主張もこの中にあるのではないか。ここまでして、人頭税を納めようとしているという姿を示した。妊婦を石を飛び越えさせて、人減らしをしたというものもある。これも嘘の伝説である。
言い伝えでは、与那国馬はフィリピンから来たものではないかということだった。1500年頃の記録では馬がいたと言うことはないそうだ。その後来たもののようだ。性格は実におとなしい。放し飼いになっているのだが、人によってきて触らせるほどなついている。
この場所を描いた。みえている道に惹きつけられた。
小雨模様である。濡れ色が美しかった。海が遠くにみえている。牧場の緑が難しかった。