水彩画の筆触について

   

ゴッホのあのうねうねした目の回るような強烈な線。中川一政氏の荒々しい汚しているような筆遣い。なぜあのような線を使わなければならなかったのか、最近すこしわかりかけてきた。見た風景の中にあのような線があるわけではない。線に何かを置き換えないと表現できないものがある。強い線であろうが、弱々しい線であろうが、線で描くということは、見ているものの何かを線におきかえている。線や面や点の組み合わせで表現しているといえる。線は必然性がなければならない。そうせざる得ない描く人の解釈がそこにあるのはずだ。写真には線はない。ルネッサンス絵画は普通に線がない。科学的な意識と呼べるような解釈が絵に及ぶと、線はなくなる。世界を見たままに描こうという科学性。写真機登場前の写真機代わりとしての絵画。間違いなく見たとおりであるという意味。ここで、本来、アルタミラの壁画以来あった線が消える。絵が見ている対象の本質を表す画面から、表層を表すもに変わる。正確に表層を移せば、本質が移し得ると考えたのだろう。西洋の科学性の限界。

子供の絵は線ですべてを描こうとする。お母さんの顔を書きましょうというと、例えばへのへのもへじのような顔を描く図をまねて描くことになる。ここでは顔は顔という記号なのだ。線は記号としての線だ。成長して、ある段階に至ると線が目の前の事物にないことに気づく。ここから絵を描くということが、見えているものを置き換えるということになる。極めて難しい作業のために、絵が嫌いになる子供と、できた絵をまねることの要領を思いつく子供とに分かれる。直接的に人の顔を見て描くことは難しいが、人の顔を描いた絵をまねるということはできる。そのように感じる背景にあるものは、絵は見えたものをそのまま描きたいという気持ちからだろう。ゴッホだってあのように見えたわけではない。妄想が起きて風景がゆがんであのようになったというようなことではない。サイケデリック絵画がマリファナの影響というような絵画とはゴッホの絵は似て非なる絵だ。ゴッホが考えた絵画を表すためにはあの強い揺れ動く線が必要だった。それは、ベラスケスの布のレースの表現が、厚塗りのシルバーホワイトの一塗りになる。そのリアルさに近いと思う。

自分の世界の実態を、表層的なものを写し取ることでは捉えきれないときに、自分の線に置き換える。線という意味は面でも、点でも同じに記号的なもの。置き換えた途端意味を失う。抽象画は画面を逆さにおいた絵の美しさから始まったと、いわれる通り、意味がなくなることで美しくなる色や、線や、面がある。この純粋ともいえる美しさは意味があることで邪魔している意識の壁を越えるからだ。実際の風景で、あれが麦の波であり、あれが空の雲の不吉な流れだと、感じている世界を画面に表現するには、一度意味を捨てて描く必要があるのだと思う。そう言い切れるかどうかの疑問はあるが、ともかく、空を描くときに空の雲だと考えて描くということではない。意味を捨てることで、俗から聖の領域に移る。聖とも違うか。自分の見ている本当のところに近づく。自分の世界観が画面に現れてくる。世界をどう考えているかを表現するには、置き換える以外に方法がない。

置き換える方法にその作者がある。丸を描いて顔とする。太陽とする。あるいは花とする。丸は丸という記号である。置き換えざる得ない理由は写し取ることではすまないものが、見ている風景の中にあるからだ。見ている世界に画面が近づくように試行錯誤する中で、成功したように見えることもある。この成功したかもしれない記憶の積み重ねのようなものが、さらに進める勇気になり表現の幅になる。対象となる風景を見ながら、自分を自由にして、手に委ねる。手順もなければ、やり口もない。全く場当たり的に始まる。それはどこまで前提なしに、自分を取り払えるかというようなことになる。描く絵もその日その日で、違う。ずいぶん変わっているような、堂々巡りをしているような。どこへゆくのかもはっきりはしない。ただ、見えている何かに、近づいているのかもしれない。その描き方の幅には、線というものが大きな役割をになっている。線は筆触という方がいいのかもしれない。今も目の前に昨日描いた絵がある。ほぼ一日1枚描いているので、いろいろある。眺めているだけで、何をやっているの。絵は奥の方から、光を放っていないとだめだ。そこから、ヒカリカガヤクものがなければだめだ。

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