新潮45の休刊
新潮社は性的少数者(LGBT)への表現が差別的だとの批判を受けている月刊誌「新潮45」の休刊を決めた。理性的判断が働いたという事であろう。しかし、本当の休刊理由は杉田論文に基づいて、編集部が杉田論文擁護特集を組んだことにあると思われる。さすがに新潮社は編集部の暴走に危機感を感じたのだろう。自民党の杉田議員のゆがんだ、差別思想はそれはそれで仕方がないことだ。自民党には杉田氏を評価する、幹部議員がいるそうだ。自民党がそういうものも含み込んだ政党という事なのだろう。新潮45もそのような読者層に向けて雑誌作りをしたのだろう。差別主義者に特化した雑誌を作れば、一定販売が出来るという現実。販売部数を伸ばす目的で、危ない右翼特化を試みた。その結果屋台骨の新潮社へ矛先が向かい始めた。新潮社の出版物は私は当分買わないつもりだった。結局のところ、差別主義の善悪を判断したというよりも、このままでは新潮社自体が危うくなるという判断。いずれにしても際どいところで歯止めがかかってまだ良かった。このまま差別主義を擁護するキャンペーンで販売部数が伸びれば、大喜びという事では出版文化というものが地に落ちたことになる。
自民党は杉田氏を守り通す政党である。この結果を忖度して性的少数者への税金の使用が控えられるのであろう。こうした税金の使用は運用の判断が大きい。杉田氏の差別主義の論文への自民党の本音は分かったわけだ。「もっとうまくやれ。」と言う位の指導だ。これで選挙で杉田氏が再選されれば、どうなるのか。差別主義の方が票を集めるという事になるに違いない。そんなことが繰り返されているのが、最近の有権者の判断である。モリカケでもおかしいと感じながらも、結局のところ、自民党の票が減少しない。そして、それにへばりつく公明党の票も減少しない。民主主義というのはなかなか厄介なものだ。新潮社ではないが、民主主義が拝金主義に敗れたということなのだろう。自分の欲得だけで投票する時代。トランプ主義の時代。堕落した民主主義はソフト独裁を産む。ソフト独裁はお金という餌で票を集める。杉田氏も生産性のない人間に、税金を使うのがおかしいと書いている。お金を持ち出せば、票は集まるという意識だろう。
テレビではニュース女子が虚偽報道を行った。沖縄の基地反対運動は中国からお金をもらってやっていると根拠なく、調査もなく報道した。全くの虚偽である。これも、視聴率を集めるための差別主義報道である。要するにネトウヨ仲間の勢力。判断力がない人間は、中国が直接辺野古米軍基地建設反対をしていると思い込む。普通の理解力があれば、そんな馬鹿なことがあり得るわけがないことは想像力が働く。ところが、ネトウヨ情報というものは、靖国問題でも、植民地問題でも、歪みに歪んだ形で広がる。このおかしな情報に飲み込まれて育つ若い人がいるという事だ。高校生ぐらいの年代にネトウヨ情報に触れると、飲み込まれてしまう人がいる。その結果広くものを見ることが出来なくなる。自分の考えに都合の良い情報だけを拾うようになる。ゆがんだ思想を歪んだものではないと固めてゆくことになる。すでにこうした人の数が一定する作られたという事だろう。だから、販売不振の雑誌新潮45が差別思想に特化して販売部数の増加が可能だったのだろう。結局新潮45の編集者は販売部数で評価されたかったというだけの事なのだろうか。
新潮社は編集部がやったことを他人事のような判断で終わりにしている。杉田氏の記事を載せた責任というものへの出版社の責任に自覚がない。一旦掲載した以上その責任は出版社にある。おかしいとは思うが、この休刊処置は著者を守るべき出版社の責任を、編集に押し付けて誤魔化している。まあ、自民党が守ってくれているからいいのか。出版社が出版文化の理念を失い、拝金主義に陥っている。この歪みは生活というものを失ったから起きていることの気がしてならない。日本人が一次産業を中心に暮らしを立てていた時代には、あり得なかった現象である。一次産業中心に生きている人が多数を占める時代には、こうした空想に遊ばされるような、実のないことは少ない。大半の人間が実業から離れた情報化時代では、観念だけが展開される。だから論壇というもの自体が失われたのだ。絵画で美術評論が無くなったのと同じ現象である。新潮45は何をやろうとしたのだろうか。読んだことが一度もないから、何とも言えない訳だが。