風景画の描き方。
眼の喜びこそ私にとって生きる楽しみである。面白いものや美しいものを見る。これに尽きると思う。何故興味のあるものを見るとわくわくしてしまうのか。当たり前のようで、これがなかなかの不思議だ。田んぼのイネの様子を見ているだけで、次々と推測が広がる。この原因を探るというのが面白い。だからもっと見ていたくなる。見て気付いたものの、原因を知りたくなる。そしてやってみて、さらに推理が広がる。それらのすべての始まりは、見て気付いたことにある。ランチュウの子供の頭の煙である。頭が煙っているでしょう。そう養魚所のお兄さんが必死に教えてくれたのだが、その煙は全く見えなかった。見える人だけに見えるものがある。見えないものが見える人がいる。見る能力には大きな違いがある。たぶん絵を描く人にだけ見えるものもあるのだろう。この見える世界をもうすこし探りたいものだ。見えているという事を画面に移そうとすると違う世界になるのか。果たして同じ世界にできた作者は居るのだろうか。
エセ科学的なきわどいところであるが、例えば、卵を見て雄雌を当てるという人がいる。実は私も一度だけ完全に当てたことがある。ところが2度と当たらなかった。何故、判別できたかもわからない。分からないのだが、孵化する鶏が全部メスになるように判別し、孵化した結果全てがメスだったのだ。その時にはメスの卵が見えたような気がした。ところがこれが再現は出来なかった。雄雌を卵を見て当てる人が時々現れる。現れるが、やはり再現性がない。ある時にだけ見えるものがあるのだろうか。一度当たると見えるような気になる。田んぼをやっていると、見えるものすべてが不思議である。何故だろうという事ばかりである。このなぜだろうの結論に、良い田んぼとはこういう収量があるという結論がある。ここに向ってなぜだろうを展開するのが面白い。ランチュウのこぶが盛り上がるのも面白いことは面白いのだが、田んぼであればもう少し有益に近づいている。
鶏もそうだった。鶏のとさかの色が分かるようになるにはやはり何年もみなければわからない。何年見てもわからない人にはわからない。鶏のとさかは赤だ。これだけの情報を言葉化して終わりにしてしまえばそれだけである。ところが赤であってもいいが、赤と片付けられないほど実は多様である。多様なうえに、その質感もさまざまである。つい色のことになるが、形だって千差万別である。3つ4つの大きな型分けがあるが、それすら気付いていない人もいるだろう。鶏のとさかと言って思い出すのは5つ位に尖った単冠であろう。人間の目は見ているようで見ていないものだ。この鶏冠の種類の遺伝形質を調べて一生終わる人もいる。メンデルの法則である。見ることから始まり、世界を成り立たせる摂理にまで至るという事がある。すべては見るという事から始まる。だから見るという事の楽しみは奥深いのではないだろうか。
ずいぶん目が悪くなってきた。細かなものは見えない。緑内障もあるので、かなり視野も欠けてきている。こうなると見えている内に見るという楽しみをもっと味わいたいと思う。それが絵を描くという事なのだと思う。見ることを深く味わう。絵を描くことによって、より深く見ている場所を見ることができる。ただ眺めて言こととは全く違う世界が見えてくる。絵を描く喜びとは、見るという事を深めるという喜びでもある。なるほどこういう事かとが無限に広がる。これは絵を描かなければ見えない事だったと思う。それは良い絵を描くという事とはかなり違う事なのかもしれない。絵画から離れて、見るという事に深く入り込むために絵を描く。結果などどうでもいいのだろうと思う。確かに良い絵を描こうとしていた昔の方の絵の方が、分かりやすい。そういう事から離れて、自分が深く見るという事にかかわってみようと思う。たぶんそれが私自身が絵を描いたという事なのだ。