家族主義の課題
日本では家族というものが大切にされている。法律においても家族主義といいう事が言われる。例えば子供が裕福であれば、生活保護を受けている親の面倒をみなければ社会から糾弾される。親には子供の扶養義務があり、50歳になった問題ある子供についても老いた親が何とか面倒をみなければならないようなことになる。家族の情というか、当然と言える感情はある。しかし、最近とみに増えている家族間の犯罪事件を見ると、家族というものの現状は、相当に変化してきていて、切羽詰まってきているとみなければならない。社会の矛盾が家族に集約されている。日本の伝統の一つである家族主義の美風という事で片づけられない現状である。そこで、自民党憲法草案ではこの家族主義を憲法にも書き入れ、家族相互の助け合いを法的に明確にしようとしている。ますます家族間の犯罪が増えかねない考え方だ。家族というものの現状の深刻さからすれば、家族をその様に追い込んでいる社会の仕組みの方に、目を向けるべき所だろう。
問題のない家族等少ないと考えた方がいい。社会は能力主義である。良い学校に入り、良い就職をする。その為に必死に競争に明け暮れる。子供に対してその競争に頑張るようにさせるのが親の役割になる。競争で頑張ることで、人間が高まるとされている。それがまた資本主義社会では、必要とされる競争であり、競争に勝つ人材という事になる。その競争が人間社会を発展させ、よくしていくというのが、資本主義の考え方である。そして、そこには競争に向かない人間がいる。競争に敗れるものがいる。競争社会は競争に敗れた人間をどう考えるのかである。現状では社会のお荷物扱いである。建前はそうではないが、実際には生活保護費は無駄な出費のように思われている。その無駄な出費を抑えるために、家族主義を打ち出してきている。何故お金があるのに、親の面倒を見ないのだという非難がされる。この矛盾の渦の中に日本の家族が巻き込まている。この苦しみが家族内犯罪の増加を産んでいる場合も多いいのではないだろうか。
ある友人から小田原では「舐めんなよ」制服を福祉職員が来ていたんだって、と言われてしまった。そんな制服を着ていて、みんな何とも思わなかったのか、と笑われた訳だ。あえて言い訳をすれば、読めない英語が書かれていた。チーム〇〇と言うように勝手に思いこんでしまっていた。その意味に気づかなかったのだ。気付かなかった罪は分かっているが、問題の中身は何にも見えていないのだという事を思う。問題が違うように見えるが、「家族とは何か。」このことを探らない限り、これから起きてくる、深刻な福祉の問題の解決はできないのではなかろうか。江戸時代は福祉は家族の問題であった。家族で解決すべきとされていた。家族で出来ないのであれば、一族で解決する。一族でもできないのであれば、部落で。家族主義、地域主義である。然し解決できないことの方が大半であるから、諦めて受け入れるしかなかった。いまだって解決できない事ばかりである。それを解決できると考えているから、またぞろ家族主義などが登場する。
人間が生きるという事はどうしようもないことばかりだ。精一杯やって、どうしようもないと諦めることが人生のようなものだ。競争社会では一番にならなければならないとすれば、大半の人間が無用の長物ということになる。資本主義がさらに先鋭化すれば、必要な人間の数はどんどん減ってゆく。単純労働はロボットに代行さる。 社会が必要とする人間という考え方が間違っている。人間がよりよく生きるためにあるのが社会だ。頑張る競争は人間に必要だとは思う。然しその競争は相手は自分自身だ。最善の自分に向い頑張る。そして自分というものを知り、自分というものを全うする。他人を凌駕するために頑張るなど、まだまだ本当の競争ではない。このところがおかしくなっているから、家族がおかしくなると考えてよい。親が子供をいじめ殺してしまうなど異常な社会である。あってはならない歪んだ犯罪だ。競争に疲労し親がおかしくなっている姿が浮かび上がる。「ダメでもいいいじゃん。」こう心の中でつぶやいて、ため息をつく。