田んぼの緑肥の意味

   

耕す前の状態。

11月5日に菜の花を播種した。ソバカスを撒いて2週間してトラックターで3日に耕運した。土が濡れていて砕土がもう一つ上手く行かなかった。バラ蒔きして、トンボで鳴らし、その上から藁を撒いた。

暖かい地域の田んぼでは裏作に何か作付けをするのが本来である。麦を作るというのが優れたやり方だと思うが、麦とお米を同じ耕作地で作ることは耕作期間の問題でよほどの能力がなければできないことである。これを実現していた江戸時代のお百姓は凄い力量だと思う。私にとっては耕作の複雑な重なりで能力を超えていた。2,3度試みたが、余りの煩雑さに耕作の手順感覚が耐えられなかった。小田原付近では冬の間に菜種油を作った田んぼが多かったのだろう。菜種も作ったことがあった。その時は40キロも収穫した。ところが、その菜種を油にして食べようと考えていたのだが、心臓に良くないものを含有しているらしいという話を聞いて、油にはしなかった。江戸時代は明かりの油だった。電気がない時代、行燈の油は必需品である。これを作り江戸に出荷するのが小田原の農業の形だった。今の時代田んぼで裏作を行う人は少ない。それで田んぼは冬の間何も作らずに寒風に晒されている。これは田んぼの土壌にとって良いことではない。

江戸時代の田んぼは冬の間も何かしら作られていたのだ。耕作地というものは何かが作られている方が、作られないよりも土壌にとって良い。その良い連作出来る作物を探したのが、東洋3000年の循環農業だと考える。作り続けることで良くなる土壌の在り方。冬に麦を作り食糧にする。さらに麦藁の利用。家畜の餌であり、屋根材にもなる。菜の花を作れば菜花として食べる。家畜のえさになる。そして明かり油になる。こうして冬も田んぼが利用されることで、田んぼの腐植量を増やすことにもなる。冬の間生きた根が田んぼの土壌に張り巡らされるという事も、土壌の物理性の改善にもなるだろう。そのレンゲや菜の花や麦が冬の農村景観を緑豊かなものにしていたのは、江戸時代の美意識を生み出したもでもある。生産の場所が美しいものであるという事が、そこで暮らす人々の誇りであり歓びでもあったのだろう。農業は大地を潤す芸術でもある。

農の会では緑肥作物の栽培の摸索を繰り返してきた。様々な緑肥を作り、土壌の変化を観察してきた。大きく言えば、マメ科植物のレンゲやクローバー、菜の花のようなアブラナ科の植物。小麦大麦えん麦などの麦科の植物。植物によって土壌や、そして稲作への影響は違ってくる。窒素肥料と言えば、マメ科植物である。田んぼで主にレンゲを作っていたのには、お米の収量の為には必要なことである。これは肥料不足がみられる田んぼで行う。草を抑えるという意味ではアブラナ科の植物である。漉き込んで発酵しなくなるまでの時間が短い。粉砕から漉き込みまでの時間を短くしても土壌の問題が起きにくく、抑草の効果も一番ある。田んぼ土壌が沸きが少ないという事も言える。麦を蒔くと根の量が大きく深い。土壌の物理性の改善という効果がある。腐植量も麦は大きいがむしろ藁は畑で使う事が出来る。

いずれにしても緑肥の栽培には技術が必要である。緑肥だから手がかからないからと安易に取り組むことは出来ない。冬の作物は播種方法、播種時期が重要になる。冬は土壌の肥料が吸収され難い。どのように緑肥作物に肥料を与えるかは重要な要素になる。まず播種の前にそば糠を撒き、トラックターで細かく耕運する。そして播種を行うのが良いようだ。麦に関していえば、播種器を使う方が望ましい。レンゲ、菜の花であれば、バラ蒔きで良いが、覆土した方が発芽率は良くなる。また田んぼが冬でも水浸しになるようでは、緑肥は育たない。冬の間の排水対策は大切である。土壌が覆われていない状態では土壌が砂漠化される。日光が直接当たることは土壌には良くない。寒風にさらされることも良くない。何かに覆われているという事は大切である。それは藁でも良い。しかし一番よいのは緑肥でおおわれることだ。土壌の微生物環境が良くなるという事になる。

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