震災6年
散歩中のフクちゃん。6年前南相馬で飼い主と別れた。
あの日から6年が経つ。あの日から日本は変わった。日本人が変わったようなきがしている。つぎの災害に対する不安がこびりついている。6年前大震災による原発事故があった。福島から来た猫と鶏と犬がいる。鶏はもう1羽だけになった。猫の2匹は元気そのものだ。家にいる猫の中では最も野性的で、意外なところで出会ってびっくりすることがある。外で会うと、びっくりするほどなついてくる。ゴロゴロ言いながら、地面を転げまわっている笑ってみせる。家ではシラッとしているのに不思議な感じがする。先輩猫が5匹もいるところに入ったから、6年経った今でもまるで子猫である。セントバーナードは来た時が1年から1年半くらいと言われていたので、7歳から7歳半という事になる。相変らずいい犬をしている。全く困らせない犬だ。夏の暑い間はバテ気味で、食欲もなく、散歩すら嫌がっていたのだが、今は元気を取り戻している。大型犬は寿命が短いから、衰えも早いので心配している。
いつも静かだ。吠えることはめったにない。
あの時、南相馬のキングケンネルというところの犬らしいという事で、南相馬に行って訪ね歩いたのだが、ついにわからないかった。立ち入り禁止区域にあった犬舎という事で、何もわからない。保健所や市役所にも行っては見たが、犬どころではないという感じで、それ以上のことは出来なかった。飼い主さんに元気で家にいるからと伝えたかったのだが、それも出来なかった。2匹の猫は姉妹である。野生化した猫の子供と思われる。だからまだ6歳になっていない、保護団体に保護されて家に来た。鶏は避難する農家の方が、鶏を置いて行けないというので、私が貰う事になった。鶏は今一羽になってしまった。卵も産まなくなった。年月が経過したのだ。助けられたのは犬猫鶏ではなく私だった。あの得体のしれない不安だけは今も体の芯に残っている。あの日を境に、潮が変わった。方角が変わった。どこか気持ちが晴れない。外向きの気持ちにはなれない。それは年齢のこともあるのだとは思うが、日本の変わった日だという事も思う。
南相馬を思い出しているのか、どことなく寂しそう。
東京電力は音さたなしである。被害を受けたお茶に対する補償請求はした。にもかかわらず、無視されたままだ。東京電力に言わせれば、自分の書式で請求しないものには払えないという事らしい。とんでもない話だ。何で加害者のやり方に従わなければならないのだ。被害を調査して、被害に応じて補償することは、加害者の最低限の務めではないか。原発事故という、過去にない事故を起こしておきながら、自分の書式で被害を請求しないものには対応しないというのは、余りに理不尽ではないか。このところが私には納得がゆかない。私の被害は、曖昧なものではない、お茶が政府の命令で廃棄処分になったのである。すでに製茶の終わったお茶が200キロ程度廃棄されたのだ。そして除染の為に大変な作業を繰り返した。近所の農家さんはみんな補償金を貰った。私は個別に被害のあらましを書いて、その金額も出し提出した。それっきりである。もし、賠償金が貰えたら、福島の復興に使ってもらうように寄付したい。
社会的な人間ではありたくなくなった。文句があるなら東電の責任だ、という気分に変わった。自分勝手にやらしてもらって何の文句があるのか。と6年目に思っている。原発事故後1年間は絵を描けなかった。やっと描いた夜の海の絵を玄関にかけてある。あの時の気持ちを忘れないためだ。湿疹が繰り返し出ていた。ヨブ記を思い出した。今は治まった。不満と不安が薄らぐ事が唯一の治療法だった。そして、政府には40年過ぎの廃炉にすべき原子炉さえ再稼働しようという、恐ろしい神経の持ち主たちがいる。それを歓迎し、要求する地元自治体がある。私にはその地元の人の気持ちが最もつらい。人間というのはすさまじいものだと思う。あの原発事故にもへこたれないのだ。地元で暮らす人が原発を選ぶのだから、どうでもしてくれという気分に追い込まれる。原発を選んで、事故を起こした福島の地元自治体を、私は恨んでいる。悲しいことだが、恨んでいる。今原発を選択する地元自治体を憎んでいる。