障碍者殺傷事件
「わたしは7月26日に殺された19人のひとりだ」49日を迎えた追悼集会での言葉だ。相模原の障碍者施設で悲惨な事件が起きた。悪い前兆を感じる。この事件のことがどうしても頭から離れない。この先の社会の何かであることを指摘する意見が出てきている。犯人はいまだ自分の犯した罪に気付かずに、日本の為に行った行為だと考えている。ヒットラーの狂気は繰り返されるものだろう。それを迎え同調する社会であるかが問題なのだろう。報道は個人的な資質や、大麻の影響などを原因にしているものがまだある。それはこうした社会を作ってしまった自分たちの責任に気づかないからだ。社会の方角の不安は徐々に感じられてきている。社会の悪い流れに巻き込まれずに、自分を最後までやり遂げられるのだろうかと思う。大変なことが起きる知らせだと考えてみると、安倍政権がうまれたのも、又支持率が高いことも連動している。能力主義、金権主義に日本人が巻き込まれてもがいている。障碍者を差別する事は、天才的な人間を評価して、普通の人間は差別されて仕方がないということになる。
自分のことに集中し、一呼吸して、あと少し自分というものことを成し遂げたい。私と同類の人間で、若い人であれば、この先より辛いことであろう。団塊の世代が不甲斐なかったわけだ。申し訳ない気持ちはあるが、1970年にそのことは結論が出ていたのだろう。あの時気付かなかった社会がこうなるのは必然であろう。そのことは、誰が悪いというより、人類という生き物の問題点が表れているのであり、人間の宿命のようなものと考えた方が良いのかもしれない。原発事故も障碍者殺人も悪い道筋に並ぶ同類の事件だ。ヒットラーの登場はヒットラーという狂人を理由にはできない。原発を止めることができないところに、この文明の力学があり、人間自身に止めることができない運命のようなものを感じざる得ない。中国は北朝鮮の原爆開発は、アメリカの世界戦略の問題だとしている。あながち間違いではないが、中国のこの発言の奥にある思惑も、アメリカと同質と感じる。
知り合いの障碍者施設で働く人たちの、協働の精神は、心の優しさ、思いやりの深さは、常々感銘を受けてきた。養鶏のことで何か所かでお手伝いをさせてもらったが、働かれている人たちのまじめさに打たれることは何度もあった。ただ、障碍者施設も、独立採算制になり、外部委託の流れである。利益主義が入り込むことはないとは言えない。この社会で運営しているのだから当然のことだ。施設運営の経済主義が一人の職員の異常な思想に繋がった可能性がある。アベ政権の国際競争の農業という思想も、経済性のないものは不用なものだという思想が根底にある。経済性のないものに価値を見ることができない社会が広がっている。障碍者の施設も働けるものは相応に働いて、経済合理性で運営しろとい締め付けが働いている。そうした仕事を作り出す困難さが施設運営を大変なものにしている。
金権主義ではない人間同士助け合う、別の居場所を見つける以外に道はない。社会福祉施設に経済性を押し付ければ、結局のところ企業的な運営者が良い運営者になる。経済性と福祉的行為が両立しがたい場合もある。この過程で、福祉の精神が希薄に成る場合もないとは言えない。農業においても、祖先から受け継いだ土地や山を、未来に受け渡そうと生きてきた人たちが、その生き方を否定されている。経済性のないことは止めろという流れである。団塊の世代が消えてしまえば、ご先祖様から受け継いだ思いは、消えてゆくことだろう。何かが終わろうとしている。一体この国はどこに向おうとしているのだろうか。人間の心を失いかかっていないだろうか。この事件の残した暗い想いは、薄れてゆくことがない。