「楽」しい自給

   

楽という言葉はなかなか興味深い。行われるようになった漢字一字を選ぶならということになると、目標は「楽」である。やることが楽しい。こういう気持ちで日々を送りたい。どうしても一日のノルマをこなすように、やらなければならない事を義務的な気持ちで過ごしてしまう事がある。しかし、生きると言う大切さを考えれば、そんな義務的な作業はまず一つもない。仕事が片付いたらとか、一段落したらやろうと言う気持ちがある。父親が死ぬ前に言っていた事に、年をとっても一段落する様な事はない。むしろいつまでたっても雑用が湧いて出てくる。今できない事はいつになってもできない、このように教えてくれた。その言葉はいつも忘れないでいる。やっている事は、すべてやりたいからやっている事だ。自治会長をやる事はこの地域で暮らすという総合的な、やりたい事の一部とかんがえている。

自分の役割を果たさないでいたのでは、やりたい事はできない。やりたい事が出来ないのであれば、楽しいという事にはならない。絵を描くのは楽しい事だ。自分の脳髄の思考回路を最高出力で動かして、直接触れている感じがある。こうして文章を描く事も自分のある本当の所だと思うが、絵を描くと言う行為は、もっと命に続く生の行為を感じる。だから、自分のダメな所も現れ出なければ本当のことでなくなる。これがなかなかの事で、自分が造ると言うか、でっちあげる事はそれなりにできるが、自分そのもの至ると言う事は、いつかはできるかもしれないという希望のようなものだ。やれどもやれども、嘘の上塗りのような仕事なのである。それはある意味で言えば苦しい作業である。自分のインチキ性にまでも、到達していないで、それなりに見せかける自分と向かい合っていると言う、頼りない感じ。そういう実際の所を検証してくれるのが、農作業である。これは実りと言う成果がその努力の度合いを示している。

それでもそれを「楽」と言う事にする。歯ごたえがある。生きると言う実感にかなり肉迫する。肉薄はするがその実態に至らないのが今のところの現実である。しかし、その所に向かってはいる楽がある。本質にあと少しかもしれないという感じはある。だから楽という言葉になる。友人が、楽しい水彩画教室と言う名前の活動をやっている。すごく幼稚な命名であるようにも思えるが、思えば奥深い名前である。絵を描くと言う事を楽しい事と、言えるのかである。思い出せない重要な事を抱えたままの様な気分でいると言う事である。これは何とも辛いことだ。このイライラする様な歯がゆい感じを、楽しいとあえて名乗ろうと言う事なのだろう。回答の無い世界に向かうと言う事は、辛い事ではあるが、面白い冒険である事は確かである。この無意味な冒険に乗り出せるのは、同行するものがいると言う事だろう。

それはマチスであったり、鈴木信太郎であったりする。そして、昔からの友人であったりもする。そうでなければ楽しいなどと言う訳にはいかない。先の見通しは無いけれど、同行の人がいる。座禅をするなどと言う事は、自分一人では思いつかない事だろう。日々無駄に過ごせという事だ。しかし、その無駄にかけた先人や同行の人がいるから、人生をかけてしまう仕事になる。だから、楽しくもあるのだろう。自給農の毎日の一時間は、凡人の座禅のようなものだ。食料と言うお布施を得ることを、菩薩行でなく、自己本位にやろうと言う事になる。座禅をする度胸がなかったので、自給農を始めたという事だろう。正直自給農は楽しいばかりである。日日の工夫が面白くて仕方がない。今脇にある醤油麹の育てる感覚など、一種の醍醐味である。絵を描く事には、どうしても至らない苦しさは伴うが、麹を育てる事は、それなりの成果物のある努力と言う事なのだろう。

 - 自給