横綱大鵬の死去
大鵬が死んでしまった。横綱というイメージは大鵬から作られたものではないだろうか。それくらい立派な姿だった。対戦相手が怪我をしないように、そーと倒して勝つあたりが、他の力士とはまるで違った。あまりに強くて、相撲人気は下火になってしまった。1960年入幕というから、まさにテレビ時代の力士である。テレビ中継には反対の親方も多く、相撲が無くなるとも言われる中、中継が始まり民放ですら相撲放送をするようになった。1940年、サハリン(旧樺太)でウクライナ人の父と日本人の母の間に生まれ、第二次世界大戦終戦の混乱期に五歳で北海道に引き揚げた。高校の定時制を一年で中退し、二所ノ関部屋に入門。五六年秋場所、本名納屋で初土俵を踏んだ。定時制に通いながら営林署で働く。この時営林署に勤めていた、母の叔父に当たる人が北海道勤務で上司に当たった。大鵬少年の入門にかかわったと聞いている。納屋少年が相撲取りになることに協力し、地元後援会のようなこともやったらしい。
それまでの栃錦、若乃花はラジオである。ラジオにしがみついて、写真のイメージを膨らませながら聞いていた。ラジオ中継でだいたいの取り口が分るようになった。聞き手の方も相撲言葉を熟知しなくてはならない。また表現が上手で、講談風のものだった。「上手投げ、上手投げ、」と叫ばれて、どちらが投げたのだか分からないで、固唾をのんで待っていると、「若乃花の勝ち、」と大音声を上げる。聞いてほっとしたり、しょげてしまったものだ。今の相撲のラジオ中継を聞いていると、全く分からない。名前と力士が合わないから、体型がイメージできない。「突っ張った、突っ張った」と言われても、あんこ形と、小兵力士では突っ張りの姿が違いすぎる。突っ張った後、そのまま付ききるのか、かわしてははたくのか、まわしを取りに行くのかが分からないと、ラジオではどうしようもない。テレビに慣れてしまい、受身で見ていることが良く分かる。名前を覚えられなくなってもいる。
大鵬の思い出を語るテレビ中継では、同時期横綱を張った北の富士さんが大鵬さんは若い頃、「一枚アバラだった」と話していた。雷電こそ一枚アバラの力士と言われていた。胸から胴にかけて、あたかも肋骨が1枚の板であるかのように、骨が太く間がないぐらいに厚みがある体形のことで、痩せ形ではあったが肩幅が極端に広かったそうだ。これはロシア人の父親を持つという事も原因していると思う。ハンマー投げの室伏選手の素晴らしい肉体も、日本人離れしている。最近の外国人力士の活躍は当然のことで、格闘技においては肉体の優劣が決定的である。大鵬は横綱になったのが21歳だった。横綱になった時が133キロで現代幕内で一番軽量の力士と一緒だそうだ。それが春馬富士である。それでも当時は大きい方だった。横綱になってどんどん大きく成って、153キロになった。大鵬は横綱になって、一度驕ってしまったそうだ。それを座禅修行して修正する。伊豆の方のお寺だったと記憶するが違うだろうか。
一つの時代が終わって行くことが分かる。大鵬のように樺太から命からがら、北海道に逃げ帰り、北海道各地を転々としながら苦労を重ねて育つ。こんな人生はもう想像もつかない時代だ。樺太から逃げなくてはならなかったのは、ソビエトの不可侵条約を破っての侵攻だ。最後の引き揚げ船で北海道に引き揚げる。船酔いで稚内で下船したために、幸運にも魚雷による沈没を免れたそうだ。相撲のけいこが苦しくなかったというのだから、すごいものである。大鵬の悠然たる態度から、天性で強かったと思われているが、ともかく稽古をした力士ということである。それが姿態度にに現われない所まで修業が進んでいたのだろう。当時は何となく、祖父がロシア人と言い伝えられていた。横綱がロシア人ではまずかったのだろう。しかし今では、日本人が横綱になれるだろうかという状態である。