石楠花が来た。

      2016/08/05

最小限の家のまわりに4本の石楠花が植えられた。丁度人の背丈ほどの石楠花である。石楠花が1本植えられるたびに、あたりの空気が変わって行った。以前からここに来る日を、待っていたようだ。この石楠花は小林ナセーリーさんから来たものである。小林さんは箱根町の町役場に勤めておられた。箱根湿性花園を作る仕事に関わられた話を伺った。それは古いことで山北の家に、山田純さんが連れてこられたのだ。その時は、ダックの問題の相談だった。純さんのコーディネートである。私が蘭科植物に興味があって、その頃は蘭にかなり力を入れており、温室も充実していた。自分で交配して、作出した蘭も見てもらおうという、こともあった。話は、何故こんな山の中で住んでいるのだと言う事になった。小林さんは久野の欠ノ上の人だった。自分は小田原の久野で、農地の為の不動産屋を始める。自分の力で久野に移るようにすると。何故か強い調子で言われた。

まさか、その話が巡り巡って、実現するなどその時は少しも思わなかった。その頃動き始めていたあしがら農の会の活動の事も話したのだと思う。そう言う事をやるなら、こんな山の奥の一軒家に住んでいたらだめだと。厳しい口調で言われた事が印象に残っている。やっと車の免許を取り、行き来が少し便利になったところだった。インターネットはまだやっていなかった。自給自足の暮らしに、のめりこんでいた。ダック問題の集まりに行った事はあったが、まだ久野には誰も知り合いも居なかった。こちらは第2東名の問題の勃発、静岡の県境に起きていた廃棄物最終処分場問題。こういうことにも追われていたのだと思う。久野のダックはまだ遠いい存在で、そこまでかかわれないな状況だった。あれこれ追われる毎日の数年がたち、山田さんから、「小林さんがなくなられた。」と聞いた。あまりの突然で、久野との関係が切れたような気になった。

大船にある植物園の分園が、鎌倉のどこかにあって、花木の交配をしていたそうだ。西洋石楠花と和石楠花を交配して、新しい園芸品種を作ろうとしていた。鎌倉の花木場が閉鎖する事になって、久野の方にも、実験途中だった石楠花の苗が、沢山来たらしい。その石楠花の苗は、欠ノ上の昔棚田だった畑に植えられた。その石楠花が植えられた畑が、里地里山協議会の事業で、田んぼに再生されることになった。石楠花は管理されることもなくなり、草むらの中に隠れていた。膝丈ぐらいのものが、5,6本あると思っていたら。それがいよいよ草を刈り払うと、なんと、背丈ぐらいのものが、20本もあった。しかし、この石楠花の行き場がない。行き場がなければ、刈り払うしかない。工事をしていた菊原さんが持っていてもいいが。と言われて期待したのだが。結局だめとなった。いよいよ工事が最終段階になり、切り払ってしまうかとなった。切羽詰って、まごのりさんに移植をお願いした。

最小限の家のまわりに植えようと思った。最小限の家は小林さんと話した、あの久野に移り住むと言う話の、行き着いたところだ。植えられた木が、摩訶不思議に晴れ晴れしいのだ。所を得たように喜んで見える。石楠花がお礼を言っているので、驚きがあった。木が語るなど、信じる人間ではないのだが、木の命がとても喜んでいるのは、目に見える。この石楠花があることで小林さんの言われていた、久野の農業地域としての再生の夢も、一緒に見る事ができる。今回の事業も、誤解も躓きもある。小林さんの田んぼを管理することになろうとは、めぐり合わせである。小林さんは見ていてくれると思う。大きな方向は間違っていない。石楠花の伝言であろう。まごのりさんが話してくれた。西洋石楠花と言っても、そもそもネパールのもだそうだ。アジアの花である。最小限の家は今日から、「石楠花の家」とすることにしよう。

 - 11月, 最小限の家づくり