加藤市長との関係
加藤市長があしがら農の会の古くからの仲間であることから、農の会との関係、あるいは笹村個人との関係で、様々な憶測があるらしい。そのために誤解が生じ、迷惑な結果も出ていることが予測される。市長と個人的関係は全くない。断ち切っている。後援会にも入会していない。選挙の時には、公選ハガキが来る位の関係に過ぎない。選挙の前後から、当選してからは無論の事、加藤氏と個人的に会ったことはない。メールもハガキ1枚来た事も出したこともない。協議会などの公式の場で顔を合わせたことは何度かある。その意味では前小澤市長とも何度かお会いしたので、少しも変わらないと思う。古い友人ではあったが、彼が公人に成ると決めたときから、一線を画してきたつもりだ。それは、もともとの彼の性格でもあるし、又私の対応法でもある。友人であることを止めたのだから、少し不自然なことではあるが、そう決めたことだ。
わたしが残された時間やりたいと考えていることは、行政の姿勢、対応も充分関係する。であるからこそ、知り合いの関係を利用して何かを進めると言う事は、全く面白い事ではない。又目的に反する。具体的な言葉にすれば、この久野地域が里地里山地区として、充分に機能する有機的結合に満ちた地域になることだ。そして、その一隅に生きる人間でありたい。私は「他」の人である。10年前に他所から来た部外者である。地元の人間になれるとも思わない。余所者としての位置づけで、役割を果したいと考えている。地域というものが巡り始めれば、その輪にも連結し、日本全体の循環が再生される。江戸時代の幕藩体制の民主主義版のようなものをイメージしている。閉鎖的循環系ではなく、輪と輪が関係しながら、全体がより大きな循環の輪になるイメージである。小田原は規模と言い、街の成り立ち、自然的条件、あらゆる観点から、挑戦してみるには、最適な地域である
江戸末期の経済的苦境の中で、尊徳が現れたのは、決して偶然ではない。身分制度だけが財産のような、武家社会に経済と言う科学性で、農民出身者が運営を任されてゆく。封建社会の特例である。栃木烏山と言う地域の再建に尽力した尊徳は、「他の者」である。小田原ではその能力は充分活かされることはなかった。久野地域にも見識ある人材も豊富だし、本来余所者が出る幕でもない。どこの地域でも同じことである。久野の田んぼが一枚でも再生する。その為にいくらかなりと、やれる役割があるのではないか。まずは、農業に市民が関わる仕組みづくりである。都市住民と久野の農業の関わりが、里親のような関係になる事。その橋渡しが立つ位置。農業は今の所、閉鎖的な産業である。閉鎖している間に、新規に入る人の居なくなった産業である。閉鎖を解いただけで、農業者が増える状況でもない。新しい仕組みを模索して、久野という地域全体が、農業地域として、再活性化することに何か道を探している。
今後も加藤市長とは、接触する気持ちはない。市長として立派にやって欲しいとはおもうが。大いに批判もある。何をやってんだと言う怒りさえある。しかし、そうしたことも発言するなら、公的な方式である「市長への手紙」という形がせいぜいである。個人的関係に基づいて、自分の考えを伝えることだけでも、趣旨に反する。そういう関係自体が存在もしていない。この点を誤解なきようにお願いしたい。間違った認識で、迷惑をかけているおそれがある。わたし個人は、迷惑など存在しない人間であるから問題はないが、そのためにやろうとしている地域の仕事に、悪影響が出てはならない。それで、あえて書いておいた。私という人間は配慮がないために、失敗を繰り返してきた。こうして書くことでの配慮のつもりが、かえって困難を増す場合もある。と言いながら、普通に暮す人間の当たり前を、思うことを思うように書いてゆく。まだ変えないで続けてみる。