農業技術の継承
農家になれるか、成れないかの一番の分かれ道は技術の確立にある。それは別にどんな職業でも当然の事であるが。身体を使う職業では、決定的な要素になる。まして、有機農業となれば経験的な蓄積を、頭と身体で身に着けなければできない。それは、農家規模となると、技術の深さ、組み立てが根本から違ってくるようだ。田んぼの技術は1反以下では別の事になる。多分、畑でも同じだろう。田んぼ1反を上手くまわす技術が身につけば、田んぼ農家といわれる規模でも可能だと思う。技術が何より重要であること。そしてそれを継承する仕組みを作らなくてはならないこと。私としては、自給自足の技術の継承は、いつでも受け入れるつもりでいたのだが、今度田んぼの技術を継承する田んぼをやることにした。田んぼ学校。現在生徒は4名。一年ここで学べば、来年は一人で耕作できるようになる。教えることは学ぶことだと言うから、知識を整理する良い機会となるだろう。
モデルタウンの事業の一つにしたいと考えている。それは有機農業はとくに技術の確立が重要だからだ。技術がないと、同じことが数倍の労力が必要となる。農薬、除草剤を使わないのだから、ただでさえ労力の必要な農法である。それをどうにかして、省力的に行なわなければ農家には成れない。庭でやる程度なら、誰にでも可能である。1反を超えてやるとなれば、技術がなければ、身体が参ってしまう。ついでに体力の事を考えると、農業を行う体力はほとんどの現代人に失われている。江戸時代の4分の1、戦前の半分の体力。化学肥料を使わない農業を体力的に行えない身体になっている。昔の人はやっていた、と言うのは別の話である。体力が基本は当たり前で、先ず働ける身体にならなければ、身体を壊す。まして、昔と違って、定年帰農などと、60過ぎてすごいことを考える。
現代人は体力不足をカバーするためにも、技術の確立が不可欠となる。有機農業の技術は、工夫する精神に支えられていなければ成らない。自然の中で植物を栽培すると言う事は、常に見えない先を読むことになる。遅霜が来るか。雨が降るか。何時種を蒔くか。発芽率はどのくらいになるか。先を読む感覚が磨かれなければならない。微生物の働きは月の運行とも関連している。鶏の餌の仕込を続けてきて何となくは感じる。堆肥を入れる日にち一つ、いい日がある。しかも、あれこれ順番がある。こうしたことが身につくかは、観察する感覚の鋭敏さによるだろう。この感性の方も、現代人にはないといってもいい要素。体力がない、感覚がない。つまり、体力と感覚とを培いながら育っていかない限り、有機農業はできない。
そう言う事は結局、一緒に暮して親が子供にいつの間にか伝えるような技術だろう。農家も結局職人。有機農業ではその仕組みがすでに失われている。それが、研修と言う事になるのだろう。研修システムの構築。国の研修もある。卓越した個人の研修もある。民間組織の研修施設も相当数ある。ここならばと言うお勧めはない。個人の場合は、個人の思想まで研修する。宗教団体主催もどうもいただけない。ごく普通のものが必要だと思っている。農業技術に勿体をつける必要はない。技術を継承できれば良い。一番合理的なのは、違う技術を比較しながら見れることである。なぜ違うのか、違っているとどう結果に現れるのか。その点、小田原の有機農業協議会の研修活動は、新規就農者にとても可能性のあるものになるだろう。何十年のベテランから、大きな企業的農家まで学ぶことが出来る。同じ道の先を行く新規就農者もたくさんいる。