のぼたん農園の新しい田んぼ

のぼたん農園では新しい田んぼを始める。昨年の水不足で、辛かったからだ。下の方に、地主さんの昔田んぼだった一反の土地があり、使っても良いよと言うことだった。下は湿地のような状態で、水はかなりある。そこならある程度広い田んぼでも出来そうにみえた。
問題は下の田んぼまで降りて行く道造りだった。農場を開いたときからの課題だった。5mくらいの崖があり、そこに道を作れるかが不安だった。下の田んぼは道のない場所である。農園から下にまで降りれると、海まですぐに歩いて行ける。海まで歩いて行ける農園という所が、なんとも良いと最初に思ったことだ。
福仲先生に降りる道が出来るか、見ていただいた。気軽に出来るよ。と言われる。しかしまだ本当に出来るとは思えなかった。それが先生があるとき見えて、難なく道を開いてくれた。その林を切り開いた後を、徐々にゆるやかな長いスロープにした。出来てみれば、あの崖を良く降りる道が出来たものだと思う。
今は普通の乗用車でも下の田んぼまで降りれる、緩やかな下り坂になった。うまく下り道が出来たものだと、福仲先生に感謝感激。わたしのユンボの腕が大分上達したものだともいくらか思う。11月12月は下の田んぼ作りの作業に集中していた。田んぼまで降りる道も徐々に広げていった。
降りる道も2.3m幅がある。この道があれば、ダンプ軽トラで何でも上げ下ろしが出来る。先日はみんなで堆肥を運び撒いた。取れたお米の運搬を考えて、田んぼの周回の畦道路を全体を2,3mにした。おとついは早速、下まで堆肥を運び撒いた。これも道が出来たからだ。こうして、下の田んぼづくりが始まった。
下の田んぼ予定地はテツホシダが一面に茂っていた。このシダの名前は青木さんに教えていただいた。予定地に小さな魚が泳いでいるので、何だろうと話していて、青木さんに来て貰って名前を教えて貰った。テツホシダが草むらのように何ヘクタールも広がっている。独特の景観である。石垣の気候に合っているシダのようだ。
しかしここにも、アメリカハマグルマが出てきていて、遠からずハマグルマの草原になることだろう。ハマグルマは嫌われものなのだが、私は別段嫌いではない。他の植物を駆逐するらしいが、そういうことも余り気にはならない。数万年で考えれば大した違いはない。
まず、テツホシダをユンボで剥いでいった。6セの面積を目標にしていた。上の田んぼの3つを畑に変えて、その分を下の田んぼにしたいと考えた。上に2畝の田んぼが7つになる。このうち、5つは担当の決まっている田んぼになる。
そして6番、7番の2つの田んぼは、柔軟に運用する田んぼにするつもりだ。タイモとかマコモとかを植えたりする。7番田んぼでは高畝にしておいてタロイモぐらいは出来るかもしれない。乾くときがあっても枯れないような水性の作物を植えようと考えて居る。
福仲先生が持ってきてくれたタイモは、私にはとても大切なものなのだ。マコモは小田原から持ってきたものだ。小田原の渡部さんが掘り起こしてくれた。今は田んぼの隅に保存だけしている。こうした作物を6番田んぼで少し広げて、しっかりと栽培したいと考えて居る。
下の田んぼはそれに加えて、共働田んぼである。上の5つの田んぼが各グループの専用田んぼとして運営している。そこで誰でも参加できる共働田んぼが必要になった。それが6畝加わる。ここは何時誰が来ても、何かしらできる田んぼにしたい。
まず広い畦を作った。2,3mある。軽トラで行ける畦だ。水がなくならないように、広い畦をしっかりと作る。時々ユンボで畦を固める。水漏れが起きなければ、渇水が起きても何とかしのげる。当然溜め池を作らなくてはならない。

溜め池の場所は、田んぼより高い場所でなければならない。いろいろ試したのだが、結局福仲先生が水が湧く場所を見つけてくれて、その位置に溜め池を作ることになった。できる限り深くできる限り大きく作った。広さは100㎡位はある。深さは平均で1,2m位はある。と言ってもすぐに埋まるのだが。時々かい掘りをするつもりだ。
溜め池の堤防に当たる場所をできるだけ広くして、下の駐車場にした。ここで車がUターン出来る広さにした。まだ固まりきらないのだが、ほぼ満水になり完成している。早速熱帯水連のティナを投入した。すぐに水面を覆うことだろう。
4つの溜め池が出来た。この溜め池は美しいものでなければならないが、農振農用地であり生産の場である。熱帯水連の養殖場である。熱帯水連の苗販売に繋げられればと考えている。ネットではかなり高価な値段で苗が取引されている。
今の面積で年に500株ぐらいの苗は生産は楽にできるだろう。石垣であれば、ムカゴから苗が取れるのだ。一株3000円だとすれば150万になるはずだ。そういう人が現われるかもしれない。今の所、睡蓮栽培の趣味のようなものである。月々10万になれば、管理をする気になれるかもしれない。
溜め池には上の湧水と同じくらいの水は湧いているようだ。1反ぐらいの水はあると言うことになる。のぼたん農園の田んぼは2反4畝分の水量が確保できたと言うことになる。今の所、上で2畝が5枚で1反。下で6畝。を耕作することになる。少し水の余裕があるだろう。
下の田んぼはまずユンボで草を剥ぎ均した。均したところでアラ起こしをした。石はない粘土質の田んぼである。その土は陶土のような木理の細かなものだ。試しに器を作ってみたが、しっかり焼けそうな土である。いつか兼藤忍さんに石垣島まで来て貰い、稲わらで行う焼き物大会をしてみたいものだ。
小田原で何度か開催していただいた焼き物作りの楽しさは忘れられない。実は粘土はもう確保してある。石垣の田んぼの土で、粘土をこねて、作品を作る。その田圃で取れた藁で釜を作り焼き物作りを行う。薪はギンネムである。のぼたん農園は縄文晩期の石垣島である。縄文人になる時間が人間には必要だ。
こうなると水牛耕耘をしたくなった。トラックターでやればすぐにでも出来るが、やはり初めての下の田んぼは水牛耕耘をしなければおかしい。そう思うようになった。1月3日、4日あたりでやってみたい。それならば、まだ日はある。11日の田植には間に合う。面白くなりそうだ。
水牛のクルバシャーを行い、トンボでのならしをする。できる限り平らにしなければ、良い田んぼは出来ない。6畝の田んぼになると、水のよどみが出来ると良くない。うまく排水が出来る田んぼにしたい。みんなで頑張って、田んぼ均しをしたい。
大きな畦も出来た。素晴しい湿地の中の見事な田んぼが出来た。もうどこか満足してしまった。しかし、田植をしてからイノシシが来たらこまる。回りにパイプを打って、ブルーネットを張りたいと思う。5、6日あたりでネット張りをする。
新しい2026年が来て、新しい田んぼが始まる。下の田んぼの参加者は現在11名である。のぼたん農園も5年目に入り新しい段階に入る。ほぼこれで農園の大きな形は出来たのだと思う。つぎの課題は農業技術の確立である。来年は技術の確立に頑張るぞ。
仲間の数も48人になった。48人の3割ぐらいは応援団である。それにしてもずいぶん人が増えて行く。養鶏が始まれば、さらに10人以上が増える予定である。そういう時代が来ていると感じる。世界が悪くなって行く反動なのだろう。
のぼたん農園の活動が、次の時代につながるかもしれないという夢が膨らんで行く。そう思うと毎日に元気が湧いてくる。楽しく頑張りも出来る。すべては下の田んぼの活動にかかっている。日本一美しい田んぼをやりたいものだ。
昔の藤垈の田植は、部落の楽しみだった。みんなむしろを持って出かけてくる。楽しくでごはんを食べて、お祭りのような賑わいだった。田んぼの主は作業以上に接待に力を入れた。楽しいのぼたん農園にならなくてはならない。食糧自給は娯楽なのだ。