石垣移住7年
今は小田原にいるが、石垣島のことがいつも気になっている。忘れていようと思うのだが、どうしても気がかりで思い出してしまう。しばらく前までは石垣島にいるときには小田原のことが気になっていたのだから、意識が逆転したことは確かだ。
今は石垣にいるときには小田原のことはあまり思い出すことはない。それでも舟原ため池のことは思い出し、あれこれ計画などが頭の中をめぐる。小田原の田んぼや畑のことは、完全にお任せして、もうあれこれ考えないことにした。
小田原の田んぼのことは、考えてもどうしようもないことになったからだ。見るとつい何か言いたくなる。任せてうまく活動しているのに、私が余計なことは言わない方がいいに決まっている。何か言えば余計なことになる。
2地域居住というのは、始める前考えていたこととは異なるようだ。暮らしてみなければわからないというのがどうも本当のところだ。最善と思い、あれこれ想定して調べてみたが、結局前向きに考える性格の人間でなければ、うまくゆかないということのような気がする。
石垣島ではたくさんの移住者とお会いする。長い人は40年。短い人は先週石垣島に来たというような人もいる。もう少し長い人は戦後開拓で入植された方もいる。近隣の島から、移住されたという人も少なくない。
そういう意味では、知り合う人のほとんどが移住者という社会と言える。こうなると、古い地域社会に新参者が入れてもらうという感じでもない。それぞれの折り合い方は尊重されていると言えるのだろう。
たくさんの移住者を見てきた。のぼたん農園に見えた方だけでも100人ぐらいはいる。抱負や希望や計画まで聞かせてもらった人である。一応お会いしたという人を入れれば300人くらいはいるような気がする。
石垣島まで移住してくる人は、かなり個人がくっきりした人である。逆に言うと自分がはっきりしない人は、かなり遠いい離島の石垣島へは移住はしない。移住してもすぐに石垣島を離れるのではないだろうか。
家まで建てて、一年もしないうちに石垣を離れる人が案外に多い。石垣の気候が合わない人、生計が立たない人、環境が予想と違った人、様々なのだろうが、いつの間にかいなくなる。そして連絡も途絶える。
私の場合で言えば、何度も暮らす場所を変えている。76年のうちで、一番長かったのが、小田原の15年である。9か所目の移住先が石垣島なのだ。今度は死ぬまでと思って選んだ石垣島である。同じところに長く住めない性格という訳でもないと思うのだが。
その時々により自分に合った場所があると思えば、どれだけ馴染んでいる場所でもためらわずに新しい場所を選んできた。いつも可能性の方に惹かれてしまうわけだ。石垣島に来た一番の理由は絵を描くためには、一度すべてを捨てなければならないと考えたからだ。
それまで描いていた絵を完全に忘れなければならなかった。自分の絵が固まってきて、自己否定ができなくなってしまった。つまり自分の過去の絵にへばりついて居絵を描くというみじめな状態になったということだ。
絵を描くということは腕が覚えたことだから、腕が忘れるためには年月がかかる。なぜ、そんなことを考えたかと言えば、自分の生きるを絵にかけてきたのに、こんなことでいいのかと思えたからだ。ダメな自分に気付いた。
このまま行くと、自分の絵を模写するような哀れな人間で終わると思えたからだ。すべてを否定しなければ、次にはいけない。修行として絵を描いて居るのに、これでは自分の絵を信じて、いい気分で絵を描いているに過ぎないと思えたのだ。
なるほどこうして歳を取り絵が衰えるのか。そういう実感があった。ダメだと気付いたのは10年前ほどになる。こうはしてはいられない。このままでは自分が否定してきた、衰える絵描きの人生になる。何かを変えなければという焦りがあった。
それにはすべてを捨てることだ。そう考えて移住を考え始めた。70前に移住しようと決意した。場所を変えて、暮らしのすべてを変えなければ、現状を引きづってしまう。そこで、移住先を探し、ここでなら死ぬまで絵が描けるという石垣島を見つけて選んだ。
実際に移住したのは、2018年11月である。69歳だった7年前になる。その3年前くらいから、石垣島に絵を描きに通っていた。2017年に土地を見つけ、家を建て始めた。ずいぶん時間がかかり、やっと引っ越せた。
なんとか、70歳前で移住出来て良かったと思った。引っ越しの前日、何もない家に、寝袋で泊まったことを思い出す。70歳からの30年心機一転して、それまでの自分の絵を忘れようと考えた。忘れるために、5年間かかった。忘れることができたので、つまり自分を引きずらないで絵が描けるようになった。
腕が忘れてくれて、腕が新しい絵を引き出してくれるようになったのが、去年あたりからである。自己否定ほど難しいことはない。何故それができたのかと言えば、どれほどひどい絵でも平気だと思うことにした。他人の目というものが気にならない性格が良かった。
もちろん今の絵がいいというような意味ではない。ともかく自分らしいを忘れることができた。これは、絵を描いてきて一番大変なことだった気がする。何とか自分を忘れることができた。自分を描いて居れば必ず陳腐化する。
自分の絵らしきものを忘れたら、絵は頭で描くのではなく、腕で描くものらしいということを思うようになった。今はできる限り、何を描くかさえ考えないで描いている。画面に向かい心を白紙にして、腕が動き出すのを待つ。
つまり移住とは、心機一転である。行脚である。行脚は僧侶が悟りを求めて、あたらしい禅堂を探す旅でもある。老後の安住の地を求めているわけではない。いくらかでも確かな自分というものを探りたいという意味である。
残りの時間、どれだけまわりの人たちにに喜んでもらえるかである。当面、のぼたん農園の実現である。自給農業の研修施設である。それが私が今までやってきたことのなかでは、人のためになる農業技術である。
石垣島での自給農業技術の確立である。これからコンピュター革命が進み、人間の暮らしは大きな変容をきたすはずだ。そのときに、人間の原点である食糧自給は、生きる核心になると考えている。食糧さえ確保できれば、安心立命して次の時代に向かうことができる。
移住7年が過ぎようとしている。これからは身体が衰えてゆく。アトリエカーにいつまで乗れるかである。何とか今の暮らしをあと6年は続けなければならない。そうでなければ、周りの人に何も伝えられない。喜んでもらえない。
のぼたん農園の完成が6年間の目標である。それが実は自分の絵を進める修行であるとも思っている。私絵画は自分という人間が充実し、深い世界を持つことができなければ、何も変わらない世界だ。人に喜んでもらうということができれば、方角は正しい。
まだまだ課題山済みである。新しい下の田んぼも、まだどうなるか何もわからない。1反の田んぼができる水があるのだろうか。その水を溜めるため池はできるのだろうか。挑戦する気持ちを失ってはならない。