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笹村 出-自給農業の記録-

水彩画の色の出し方

      2025/12/13

 

水彩画の特徴は多様な色彩表現が可能という所にある。それは顔料の粒子が他の絵画技法よりも細かく、しかも染料を利用した絵の具も作られるようになり、透明度が飛躍的に高いと言うことにある。透明であると言うことは、不透明にも使えると言うことになる。絵の具の内で一番幅広い表現が可能な材料である。

紙の色が透けて見える明るさ。その薄い層を何度も重ねることで、ほぼ地色から、絵の具そのものの色まで、多様な表現が可能になる。水にわずかの絵の具を混ぜただけの色彩から、濃い絵の具を一気に塗ることで出来る色相との違いも、使い分けることが出来る。

時には、ほぼ水だなと思うものを白い紙の地に塗ることがある。それでも絵は変わる。水彩技法は未だ、未完成なものだとつくづく思い知らされている。水彩絵の具の表現法は無限に広がっているにもかかわらず、可能性としての水彩絵の具の持つ大きな世界は未だ展開されていない。

それは油彩画とか、アクリル絵画、日本画の画法が、表現方法として単純に出来ているかからなのだと思う。そのために安易な気持ちで、例えば写生には水彩が便利だ言う気持ちで水彩画を試みると、浅いところで絵が出来てしまう。その結果絵画とは違うものを身につける悪い表現に陥る。

油彩画で言うグラッシ技法に近いものが、水彩の基本技法なのだと思う。油彩画で言えば、ルネッサンス期に生まれた古典技法であり、近代絵画の登場までの長い間油彩画はこの技法で描かれることになった。完成された古典技法への革命が、近代絵画の登場なのだろう。新しい絵画は新しい技法を伴う。

その古典技法に近い技法からはじまり、印象派的な表現まで連なって可能なものが水彩画である。日本が的なもの、水墨画のような表現、あらゆる絵画表現が水彩絵の具であれば可能なのだ。もちろん版画表現にも水彩絵の具は利用できる。

水彩画の場合このグラッシの技法が短時間に多様に行えると言うことが、水彩画の色彩表現の基本ではないかと考える。加えて、油彩画と異なる重ね塗りは、赤の上に白を塗リアワイ桃色を表現する。逆に白の上に赤を重ねて、桃色を作る。というような、重ね塗りまで可能と言うことにある。

ここから、水彩画の表現は底がないほど深く多様なものに成って行く。毎日新しい表現方法に出会っている。という気がする。こんな表現が、こんな調子が、と切りなく新しい画面が現われる。これほど多様なものであったのかと驚くような発見で、毎日の制作を続けている。

しかも、短時間で渇くという特徴から、即応性が高く、画面と呼応として反能しながら、重ね塗りで描くことが出来る。その自由さは無限と言えるほどの表現を生み出す。一日一枚描くことが可能な水彩技法と言うことは、絵画研究の速度も、油彩画の人よりも、数倍深くなりうると言うことかもしれない。

まだ、まだ水彩画の表現はその技法の限界までは行われていないのだと思うが、水彩画に出会って良かったと思う。未だかつてない世界を切り開きながら、制作する毎日である。自分の殻を壊し続けることが出来るのが、水彩画である。たぶん多くの人がその逆だと思い込んでいるのだろう。

次の時代は機械を使う絵画が出来るだろう。脳が映像を浮かべれば、

表現されるというような描き方だ。そのときに使われる絵の具は水彩絵の具のはずだ。油彩やアクリルでは、その技法独自の表現という意味では良いのだが、表現の幅が狭くて、脳が想像する表現の一部しか描くことが出来ない。

海の青色を表現しようと考えたときに、水彩画では無限というほどのバリエーションがある。同じコバルトブルーであっても、水で溶く濃度で色相が異なる。しかもその同じ色を重ね塗りすることで表れる色もまた異なる。重色表現になるから、組み合わせが無限だ。

青色はセルレアンブルー、コバルトブルー、ウルトラマリーンブルーの3種を使う。その下に、コバルトバイオレットが入る場合。コバルトイエローが入る場合。ビリジャンが来る場合、もう多様すぎて技法的にはコントロールを越える。たぶん生来はAIや機会ががそれを補うはずだ。考えたあらゆる表現が可能になるのだろう。

しかも、紙の白と、絵の具が塗られた白では、その上に置かれた色の表情がまるで違ってくる。このことは重要だと思っている。その使う白にも、幅があり、混色用の透明白と不透明の白がある。余りにその順列組み合わせが多すぎて、自由に出てくる表現に限界があるのだと思う。

その表現の奥行きの深さは、ほぼ無限と言えるようなものではないかと思う。だから、すべてを自分の身体が覚えて、反応で描くしかない。理屈で組み立てる技法であれば、この無限とも言える表現を整理することは不可能である。

そのために、水彩画を志す場合、理屈で描かない人でなければならない。理屈で描く人が水彩画を行うと、一番簡単な淡彩画の技法でとどまることになる。とっさに即応的に必要な表現を自由に選択できる。特別な受け止め反応する感性が必要なのだと思う。

余りに複雑なことになるため、水彩画の技法を、考えないでも使えるようになるためには、人間の一生では時間が足りないほどのものだ。36歳のゴロに油彩画から水彩画に変わり、40年間毎日描いてきたが、今になって分かる表現方法が、週に一度はある。

その危険な水彩画の入り口にある表現を具体的に書いておけば、透明水彩画と呼ばれたり、アメリカン水彩画と呼ばれたりする。薄い色調で統一された、写実性の強い、紙の白が生かされた水彩画になる。この絵も綺麗なものなのだが、誰が描いても同じ塗り絵になるというような弱点がある。ここで水彩画が終わることになる。

一般に、水彩画というイメージはこの浅い塗りのタイプが多く、上手で、綺麗な、商品絵画になる。つまり芸術としての表現とは言えないところで止ってしまいがちだ。何故芸術にならないかと言えば、誰が描いても同じものにしかならないからだ。上手か下手かはあっても、表現内容は同じである。

水彩画の色の出し方は、微妙すぎるところがある。片側方向に一度塗りした色と、往復したときの色では、異なってくる。当然塗り重ねた回数でも色は変化して行く。空の青などよほど反射的に描かなければ、鮮度を失う。だから2度と同じ空を描くことは出来ない。

そんな微妙なところにこだわって描いたところで無意味なようなものだが、水彩画はその微妙さの積み重ねのような所がある。これは考えて居てもどうにもならない領域だ。だから、頭で絵を描く人には水彩画は向かない。感覚的な絵だと言われるのはそのためなのだろう。

当然、筆によって色が変わる。豚毛筆の色と貂の筆の色では異なる。平筆と、丸筆でも違う。こんな違いは無意味なことなのだが、まるで違う絵になるから、身体が身につけて、反応するようにならなければならない。油彩画であれば、太い筆と細い筆の違いはあるが、筆の種類で大きく異なる点は墨絵と同じである。

貂の筆と狸の筆や馬の筆と墨絵でも様々な筆を使う。それは水彩画でも全く同じことである。その微妙さが限界を超える所があり、垂らし込みがにじみの表現など偶然なようなものを使いこなすことも出てくる。その結果、水彩画を感性的な表現ととらえる場合もある。

同時に、ボタニカルアートのような、客観的描写にも水彩画は向いている。水彩画の表現は余りに多様で、修得尽くせないほど奥が深い。だからこそ、人間の探求の表現に向いている。人間の心は無限に広がっているから、水彩画の多様性が向いているのだと思う。

 

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