生家は寺子屋だった

   

 

生まれた場所は境川村藤垈の、向昌院の味噌蔵の上の中二階と呼ばれていた場所である。村からかなりはずれた、ポツンと一軒家のお寺である。母は出産のために実家に戻っていたのだ。祖母は看護婦さんだった人だし、祖母の姉はお産婆さんをしていて、私を取り上げてくれたのだ。

その向昌院は、寺子屋をしていたということで、子供のころには本堂には、そのころの座り机がまだ仕舞われていた。この寺は、生活ができなかったために、住職が相次いで自殺をするというほど疲弊していた。その疲弊した寺に、祖父が昭和の初めころに入山した。

祖父は東京生まれの人で、その父は徳川幕府の古い時代からの家臣で、三河から徳川に従って東京に来た人ということだった。その父は幕末期に通弁として活動していたが、コロリで急死したという。そのために、祖父黒川賢宗はお寺に預けられることになったらしい。

その後その祖父の師匠にあたる僧侶が北海道に布教のために行くことになる。明治時代の話である。それに随行としてゆくことになった。ところが寒さのため体を壊し、東京に戻ることになる。東京に戻った祖父は、今度は本山の指示で、今度はその疲弊した向昌院に行くことになったらしい。

その時の祖父はまだ20代だったが、自給自足で生きようと決意したらしい。このことは子供の私によく話してくれたことだ。昔の僧侶は自給自足で生きたのだと畑の前で話してくれた。私が僧侶になると決めたので、このことだけは伝えたいと思ったのではないかと思う。

実際に自給自足でなければ、成り立たない寺だったわけだ。そこで、祖父は役場に勤めることになる。どういういきさつかはわからないが定年退職するまで長く、境川村役場に勤めていた。お布施で暮らすことはできない寺だった。祖父生計の能力はかなり高い人だったと思う。6人の子供はみんな大学を卒業した。

当時の向昌院は200軒ぐらいある檀家との関係がなくなっていたらしい。そこで役場に勤めて、生活しようと考えたらしい。実際の生活は自給自足であったといえる。畑や田んぼはもちろん、蚕さんをやり、ヤギを飼い、ミツバチを飼い、炭を焼き、何でもやっていたといえる。

祖父は寺子屋こそやらなかったが、精神病院らしきものをやっていた。お滝の森というものが隣にある。そのお滝の森の泉が、精神病患者の回復に霊験があらたかということで、多くの患者が集まる場所だった。その患者をお寺で面倒を見ていた。本堂が病棟のような状態だった。

寺子屋の痕跡は昭和30年頃までは残されていた。あの山村のお寺でも、寺子屋があったというのは、どういうことなのか。何を教えていたのだろうか。とても興味が湧いた。それで、大学では寺子屋のことを勉強できればと思っていたが、結局それだけの熱意も能力も無かった。

今でも寺子屋のことを考えるが、日本の識字率が高かったと言うことでも、学問的に意見が分かれている。もちろん私は寺子屋で育ったという意識があるから、日本の識字率は江戸時代世界一だったと思っている。江戸時代の社会を想像すると、読み書きそろばんは百姓でも必要だと考えて居たと見て良い。

 

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