観察力はどうすれば育つか

観察力は目的をもって、対象を見ることで育つのだと思う。田んぼの観察をするとすれば、どんな田んぼにするかという目的がなければ、観察力は育たない。1反十俵を収穫するという目的を持ち、それに向ってイネや田んぼを観察することで、いろいろのことが見えてきた気がする。
イネ作りをしてきたこと。鶏を子供の頃から飼ってきたこと。そういう観察する目が、絵を描くときの見る目になっているのだと思う。見という意志的なことは、ただ見えると言うこととは違うことだ。普通に暮らしていれば、見という意志的なことと、見えるという受動的なこともそれほどは違わないだろう。
絵を描くことは見るという事に始まる。見ることに到達する。多くの絵描きが見ることの重要性を主張している。モネの目は凄いとか、野見山暁治は眼の人だという本もある。絵描きにとって良く見ているという事は最高の誉め言葉ではないだろうか。
見たものの真髄を描くのが絵描きなのだろう。それが常人の及ばぬところまで見ていれば、その絵が感動を呼ぶという事になる。絵を見て初めてそういう事なのかと気づくことがあった。それで絵をすごいものだと思うようになったのだろう。だから、ただ目に映っているものを画面に映しているようなものを絵とは言いたくないのだ。
何故絵描きが普通の人より良く見る事のできる眼の訓練を出来るかと言えば、見たうえで描くからであろう。ただ見ているのではなく描くために見ているから、ただの見方ではなくなってゆく。描いては消して見えている奥底のことまで考えて、何なのかを確かめるから、見る力が増してゆくのだろう。
もちろんそれは本当の絵描きの話である。大抵の絵描きは見ていないという事なのだろう。見ていることが伝わることのすごさが強調されるのではないだろうか。私はまだまだ見えかかっているに過ぎない。どうすれば世界の実相が見えるのか、もがき続けている。
自然観察会という物がある。自然を見て、植物の名前を教えてもらったり、昆虫を見つけて、その生態を学んだりする。しかし、私の場合はおおよそのことはすぐ忘れてしまう。石垣島の自然観察会では大勢の専門家の方が、指導してくれるのでその面白さは別格なのだが、自然観察会で教えてもらう植物の名前はその場を過ぎると残念なことに忘れてしまう。
つまり、観察する力をつけるためには、生活に必要なことを観察するほかないという事である。自然を観察するという事も極めて重要なことではあるが、植物のわずかな違いを見分ける力は名前を覚えるくらいでは、どうにもならないことである。自分で見分ける力を付けなければならない。
観察力という言葉を見る力と考えた方が分かりやすいのではないだろうか。観察とは観て察するという事なのだ。見たものの姿から、その姿の意味を考える力という事になる。葉に穴がある。そしてその穴が開いた理由を推察する。
見ただけではどれほど緻密に見たところで意味は生じない。葉っぱの穴の形がどれほど正確であろうとも、その葉っぱに穴が空いた理由が見えないのならば、観察したことには成らない。ハイパーレアリズム絵画は見ている主体を消してしまうという事で、ただただち密に描くことを強調し、見る人にその写実のち密さだけで、意味を成り立たせているようなものだろう。
ところが、物がそのようにあるという事の意味は、私はこういうものとして受け止めるという事が、見ることの目的として存在しなければならない。そこが、自然観察と農業の成育観察との違いである。農業の観察は見たことを材料として、ではどうすれば良い収穫になるのかが求められる。
今現在、イネの葉色が青竹の青よりも2段階薄いという事を見て確認したとする。問題はなぜそうなっているかである。窒素が土壌に足りないのか。有機農業の為に生育に遅れがあるのか。あるいは除草剤の影響がないためなのか。こういうことを考えるためには、沢山の田んぼを十分に見て、その結果様々な対策を打ち、結果を確認する以外に真実の理解には繋がらない。
こうした推察を重ねて、では穂肥を与えるべきか、土壌に干しを入れるかというこれからの農作業の方針の判断を行う。そして、最終的にはやったことが良かったのか悪かったのかという事になる。結論が収量の多寡によって現れてくる。
観察が正しかったのかどうかは収穫時に明確になる。この経験を重ねることが、観察する力を身に着ける方法になる。ところが、見る力が身に着かない人はどうしても居る。よく勉強はしていて、知識はある。もちろん名前にも詳しい。所が収量が少ない。収量が少ないという結果は、見えていないと考える他ない。私は1俵多く採れるようになることが、植物の望むものが見えることに繋がると考えてきた。
収量不足は見る力がないためである。もちろん分かっていながら努力をしない人も多いわけだが。分かっていながら遣らないというようなことでは絵は描けない。分かっているならその場でやってみる。遣ってみたら分かっていなかったと言うことばかりだ。
見る眼のない人は植物に対する感がない人という事になる。感、あるいは観はどういう訳か、なかなか身に着かないもののようだ。初めからある人にはあるし、無い人がだんだんに身に着いてきたという事は少ない。たぶん生き方から来ている。
人間観察では線がまっすぐに引ける人か、どうしても曲がってしまう人かである。どうしても曲がる人は定規で線をひく。畑にまっすぐな線をひこうとすると、紐を当てることになる。何の補助なしに真っすぐに線をひける人に成らなければ、農業向きとは言えないと私は思っている。
自然に対して良い線が引けるというすごさは、今回田んぼを再生してみて分かった。昔の石積みを見つけながら、田んぼを再現していった。昔の田んぼの畦の形は実に美しい。直線は一つも無い。自然の中に人為を落とし込むことが出来ている。
なぜか良い線が引ける人は、見える人である。そして体が柔らかい人である。身体の柔軟な人はバランスがいい。そして頭も柔らかい。観察力が大抵身に着いている。何故だかわからないが、そういう事を人間観察してきた。だから普通絵を描くときに定規で線を引く人はまず居ない。定規の線はつまらない線だからだ。
金魚を飼っていたころ、ランチュウまだ小さな子供分別に際して、頭の煙を見ろと言われた。煙がある金魚が頭が大きくなる良いランチュウの可能性が高いというのだ。然しその煙はどうしても見えなかった。名人だけに見える世界が確かにある。その煙を見ることができないような人間にランチュウは残念ながら飼えないという事になる。
竹の青さを必要なものとして記憶すれば、竹のことを深く観察することが出来るようになる。竹を見ないでも紙の上にその青さを表せるかである。竹の青さをの色を基準にして、イネの青さを比較する稲の生育観察法があるからだ。竹の青さが身に染みていれば、イネの葉色も分かるようになる。そう思って竹の色を見ると、いままでとは竹を見る深さが変わる。
イネの葉色はいつも注視しなければイネの良い栽培は出来ない。今日の葉色はどうだろうと、そのわずかな日々の色の違いが分かるようになると、かなり観察力が付いたという事になる。今の時期葉色の黄色い田んぼがある。私はこれでは収量は上がらないと見る。しかし、黄色い苗が良いという考えもあるのだ。
その色の観察の違いが、それぞれの生育判断の重要なポイントになるから、農業は面白いし、真剣に色を観察できることになる。だから、絵を描くときには田んぼをやるように描く。田んぼをやる時には絵を描くようにやる。これはたとえ話ではないのだ。
見ることがただの見るための見るであっては本当の観察力など育つものではない。