小脳で描く絵画へ

   



 ラジオで小脳と大脳の関係を専門の方が、説明されていた。運動選手は小脳で動いているという話だった。野球選手の投球ホームやゴルフ選手のスイングは大脳で考えてやっているのではなく、小脳が動きを反射的なものとして動かしている。はじめは大脳で考えて行うのだが、小脳の動きになるまでやる。

 大脳は考えたり指示を出したりしていて、小脳は運動系だというような単純な関係でも無いと言うことが分かってきたらしい。両者がフィードバックしながら、巧みに機能しているらしい。この関係をより緊密にしてゆくことが必要なようだ。

 太極拳を続けている。最初の一年は形を覚えることに専念した。覚えは昔から悪い方だから、太極拳の動きを覚えるのに、一年間かかった。次の一年は忘れるように努力した。3年目は思い出すというのでなく、動きが自然に出てくるようになった。たぶんこれが小脳で動くようになったと言うことかと理解できる。

 動きが自然に出てくるところまで来て、始めて正しい動きが出来るように努力をしてきた。そろそろ3年目が終わるので、今度は一切の目標をを忘れなければならない。動作の中に自分というものが、入っているようでありたい。動きに自分がにじみ出てくると言うことだろう。

 大脳は動きを覚える為に、繰り返すことで記憶してゆく。それが完成すると今度は小脳によって考えること無く反応として動作を行えるようになる。だから運動選手はフォームを考えて行う間はまだ途中で、考えないでもその形になるところまでやらなければならない。そこまで行かないと本当の動きにはならない。

 私のやり方は1年目で大脳化して、2年目で小脳化すると言うことだったようだ。歩く動作は思い出しているのでもない。考えているわけでも無い。あそこに行くという意志で自然に身体が反応をして歩いている。この動きをつかさどっているのが小脳と言うことらしい。

 だから歩きながら大脳で他のことを考えられるわけだ。小脳に歩く方はまかせている状態。これが慣れないステップを踏みながらでは、考え事は出来ない。言語も小脳が関係している。考えたことが言葉に自然に出てくる機能。小脳は人類の進化数100万年のあいだに大きくなった器官だ。人間が人間になるためには小脳が関係しているらしい。

 と言うことは私が絵を描いているのは、小脳が作用して絵を描供養になろうとしていると言うことなのかもしれない。だから、大脳の指示通りではない動きを手がするのだろう。手の反応にまかせる方が良い結果があると言う経験の積み重ねで、徐々に大脳ではなく、小脳で絵を描くと言うことになってきたようだ。

  小脳は後頭部の奥深くにあり、中に詰め込まれた神経細胞の数では大脳を大きく上回り、極めて高度な情報処理が行われている。 機能的には大脳と連携して、身体を思い通りに動かすために必須の役割を果たすのだが、最近は運度だけではない機能が分かってきた。

 小脳はその運動指令に基づいて次の瞬間の身体の状態を実際に身体が動くよりも前に予想し、小脳核を通してその予想結果を大脳へと送り返えす。 大脳はその予測情報を元に、更に次の瞬間の運動指令を生成する。 手がコップを掴むまで、大脳と小脳がこの様な情報のやり取りを繰り返すことにより、スムーズな運動が実現できる。

 小脳の機能は、短期記憶や注意力,情動の制御,感情,高度な認識力,計画を立案する能力のほか,統合失調症(分裂病)や自閉症といった精神疾患と関係している可能性も示される。小脳は筋肉に動きの指令を出すというよりも,入ってきた感覚信号を統合する役目を果たしている。

 以上は付け焼き刃の小脳の知識だが、この入ってきた間隔信号を統合する役目が絵を描く上の要。絵を描いているのはますます小脳なのだと言うことが想像される。小脳で描くようにならなければ、その人の絵にはならないと言うことなのだろう。絵を習うと言う範囲は大脳の作業なのだろう。

 絵とはどういうものかを考える。社会の中での藝術の意味を考える。こういうことは大脳が行う作業だ。そして自分の目的にかなう絵を描けるように技術を獲得して行く。絵を自由自在に描く技術の獲得。絵画というものの目的。こういうことはまだ大脳が行うことだ。

 次には絵の描き方を忘れる必要がある。つまり絵はその目的や、描く方法を思い出して描くようなものではないのだ。まったく未知の世界に向かって切り開いていくことになる。大脳的な筋道を捨てたところから、小脳の描く絵が始まる。この辺りからが「私絵画」の始まりになる。

 考えながら描くもののは絵らしきものではあるが、大脳の考える自分の絵というものの模写と言うことになる。良い絵はこういうものだから、そんな絵を自分が描こうというのは、大脳的自分を過信しているに過ぎない。自分と言うものはもっと深い総合的なところに存在するはずだ。

 絵は頭を使うのではなく、感性で感じたままに描けば良いのだと言われる。絵は感じたもので描くとも言われる。それは、大脳ではなく小脳で描けと言っているのだろう。つまり、技術を覚えるとか、良い絵を学ぶというようなことは、すべて忘れなければ始まらないのが絵だと言うことを言っているのだろう。

 これは左脳と右脳のことを言っていることでもある。左脳がデジタル脳で右脳が感性脳とされている。そう単純ではないようだが、一応絵は左脳で描くもので、理屈で描くものではないと言うことなのだろう。そのもう一歩踏み込んだ考えとして、小脳の動きにまで行かないと描く行為が絵にならない。

 歩くように、絵を描く。何も意識せずに絵が立ち現れてくる状態に進まなければならない。分かってきたのは「私絵画」というものの背景に存在することだ。大脳に構成される絵画は、学んだ絵画である。知識の絵画である。それは描くという行為を重視した場合、邪魔になるものなのだ。

 その人が歩く時に、歩き姿が自ずと現われるように、私絵画はその人がそのまま努力も意識もすることなく、自ずと立ち現れてくる絵画のことだったのだ。そのためには大脳の浅はかな制御を解き放たなくてはならない。絵画の意味とか、先入観の一切を放棄しなければならない。

 絵画の一切を忘れるところからである。禅宗では一切放下と言うことが言われる。すべての執着を捨てろ。絵画は小脳で描く。と言うようなことも忘れろ。ただ描くという一事になる。絵を描くときには大脳を働かすようなことがなくならなければならない。

 描くことを小脳化する方法はただ一つ。繰返し繰返し描くことしかない。腕が覚えるまで反復練習をする。自然に筆が動くようになるまでに成る。天才であれば、この時間が短い。凡人であればよほどの時間がかかるのは当然のことだ。しかし、凡人でも長い反復練習の後には、小脳で描けるようになる。

 弓を見てこれは何に使うものですかと尋ねた、弓の名人の意味はそこにあるのだろう。筆を見てこれは何に使うものですか。と言えるところまで行かなければ絵の名人にはならないと言うことなのだろう。岡本太郎は藝術は最後は指を指すだけで良いと言っていた。この人は言うこと書くことは素晴らしい。ただ反復練習が不足したかもしれない。

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