絵は無造作が目標になる

   


   新しい写真機で撮影した写真である。強い雨が降っているのぼたん農園である。こういう強い雨は三ヶ月ぶりだ。田んぼは乾いていたのだが、この雨で一番下の田んぼまで水はまわった。水はしのぎきった感じである。これなら田んぼは続けられる。

 新しい写真機はパナソニックのものだ。一番明るいレンズのデジカメだ。今度の水彩人展で松波さんに、動画撮影してもらうために購入した。今使っているカメラは実は故障していて、いつ使えなくなるか不安な状態だった。さすがに不安のままでは、水彩人展の撮影を引き受けられなかった。

 雨で暗くなった様子がよく分かるように取れている。これは望遠を使ってとったのだが、特に手ぶれをしていないようだ。充分使えると言うことは分かった。一安心である。キャノンのカメラは色々の機能をほとんどを使わないまま、良く理解できない間に、壊して終わりそうだ。

 田んぼの写真や畑の写真をほぼ毎日撮っている。水彩人展の様子も、もう何年も撮影した。毎日、7年間ぐらい使ったのかも知れない。まあ仕方がないところかも知れない。使い方は畑で使うのだからかなり荒っぽいものだった。丁寧に扱うと言うことにはならない。何日も野ざらしになっていたこともあった。

 今度東京に行ったときにはカメラは修繕に出すつもりだ。果たして直るものだろうか。その確認をしてから修繕に出したいのだ。全階銀座に行ったときにキャノンギャラリーの2階に修繕してくれる場所はあるとのこと。しかし予約制だと言うことだ。ともかく面倒くさく出来ている。

 どこのどのカメラが良いか分からなかったのだが、動画が撮れて、美術館の薄暗い環境でも、手持ち撮影でもきれいに取れるカメラでないとならない。レンズの明るさが、F1,4と言うことで、小さなカメラの中でレンズの一番明るいカメラだ。

 今カメラはカメラ専門メーカーだから良いとは言えないと思っている。昔なら、ニコン、キャノン、と言うことだろうが、今はすっかりデジタル化して、電機メーカーでも優秀なカメラが作られていると思う。レンズはドイツのライカのものだ。いま慣れるためにいろいろ撮影の練習をしている。

 写真機で遠回りしたが、書きたかった絵の話に入る。

 昔友人の絵の線について、早すぎるのではないかと批評したことがあった。それを30年たったいまも覚えている。私も友人もである。それが正し判断だったのか、良くない指摘だったのか、今も気がかりなところである。批評は命がけのものだ。

 今は彼はそういう線を使わなくなった。それが良かったのか悪かったのかは分からない。今の私は線は無造作ほど良いと考えている。つまり作為を感じさせない線が大切だと言うことだ。無作為と行っても良い。当然人間が描くのだから、作為が無いはずがない。作為を感じさせないところまで越えてゆくと言うことだ。

 マチスの線が子供の線のようである。マチスはたしかに不器用な人ではあるが、意識して子供のような幼稚に見える線を引いている。不器用な人だッたために、素晴らしい線を身につけたのだとは思う。この線が自分の絵に相応しいという結論である。絵を描く上では巧みな上手さは多くは良くない結果になる。

 線で語らないことだ。線が特出して語らないと行ってもいい。絵を見たときに全体だけが印象にあって、線はどんな調子なのか、色彩はどんな組み合わせか。そもそも何が描かれて言うのか。などと絵を分析的に見ることを遠ざけている。

 絵が総合的に、全体としてマチスの絵だと強く存在し、絵としての総合で現われている。その明確な主張がマチスの色の総合から来ている。例えば女性像があっても、その女性がどんな人であるかとか、などという連想すら働かさせない。女性像という物があるだけだ。

 ヘタウマという物が流行したことがあったが、ヘタウマ風は実は一番嫌らしいものだ。意識して下手に見せると言うことは、そもそも人間的にいやらしい行為だ。上手に描くのも恥ずかしいが、それ以上に恥ずかしい。まあ上手いも下手もどっちも私は嫌なのだ。そういう意味で普通が良い。

 上手いも下手もそこに作為を感じてしまうからだめだ。絵は無造作にどうでも良いというように、上手くも下手でもなくそんなところに目をひかせないように、作られていなくてはならない。無造作とか、無作為の線とはどういう線かと言えば、中川一政の線である。
 
 書で研ぎ澄まされた線である。何も感じさせない線が引けている。マチスもそうなのだが、日本にはそういう線の素晴らしい作家がまだまだいる。梅原を筆頭に鈴木信太郎も良い線である。小糸源太郎の線も良い。今生きている人で線の良い人は居ない。良い線を引かせるのは時代というものもあるかも知れない。

 絵は無造作でなければならない。巧みに描くと言う姿勢が違う。それは職人に任せれば良い。自分の世界観を示すためには巧みだと言うことになれば、自分は上っ面の人間であると、間違った自慢を表明しているような、とんでもなく恥ずかしいことになる。

 では下手に描けばいかにも本音に見えるかと言えば、これはさらに恥ずかしい行為になる。わざわざ出来ることを出来ないように見せかけると言うことは人を騙していることに成る。絵画に置いて、人を欺くような手法はあり得ない。

 結局絵は無造作でなければならないと言うことになる。上手は絵の外、下手は論外。道元禅師は眼横鼻直と言われた。眼は横に二つ。鼻は縦に一つ。その当たり前こそ大切だとした。特別なことは何もない姿が、実は真実なのだ。

 どうすれば上手に見えないか。どうすれば下手に見ないかと工夫するのも大間違いである。そうしたことすべてから離れると言うことだ。始めて筆を持ったように、新鮮な気持ちで、何も怖れることなくただありのままに線を引く。それが出来きるまで線を引き続ける以外にない。

 当たり前である事が修行の終着点だと道元禅師は言われている。そこにはわざとらしい物は何もない、率直な物のはずだ。まず覚える、そして忘れる。忘れてから正しい形を探る。そのことが自由に描くという世界に道を開く。

 絵を覚えるのに、50年もかかってしまった。忘れようとして10年余りの年月が経過した。徐々に絵という物を忘れかけているようだ。まだ忘れきることが出来ない。何とか忘れることが出来たときに、指を指し示しただけで絵になる世界がある。そう中島敦は名人伝で書いている。岡本太郎も同じく書いた。

 指を指すだけで良いのに、わざわざ絵にするという事がもう無造作ではないと言うことなのだろう。無作為の世界にはまだまだ遠い。

 

Related Images:

おすすめ記事

 - 水彩画