藤井聡太8冠達成

   



 藤井聡太さんが21歳にして、将棋の八つのタイトルを手にした。いつかはすべてのタイトルを取るだろうと考えていたが、それにしても最短で達成するとは驚きである。何故21歳の若者が、すべてのタイトルを独占するようなことが起きたかと言えば、コンピュター将棋が登場し、将棋の考え方に大変革が起きたからである。

 将棋の今まで人間が気付くことが出来なかった部分が、一気に切り開かれてきたのだ。そのコンピュターが切り開いた発想の部分を、最初に自分のものにしたのが藤井聡太8冠である。自分というものを、捨てることが出来た最初の人と言っても良いのかも知れない。

 普通人間は自分の発想というような、自分の核のようなものを持っている。その核が人間の可能性でもあり、人間の面白さでもあり、人間の限界でもある。この核となるものを、限界まで探求し尽くしたならば、核が消えてコンピュターを超えるような領域に至ったという気がする。

 実は将棋の研究という意味では、藤井8冠は外の棋士と変らないのだ。今回の王座戦では、すべての将棋で中盤まで不利だったと言える。将棋の戦略としては、藤井8冠はまだまだである。将棋の構想や作戦という意味では外の棋士でも、たどり着ける領域にまだ居る。

 コンピュターの形勢判断で、3対7くらいの不利な状況で終盤になって、五分という状態である。コンピュター将棋が強いのは終盤である。藤井将棋も同様である。しかも、勝つための複雑化技術に巧みである。だから、終盤不利でも勝つ将棋がかなりある。

 終盤の強さが圧倒的なのだ。コンピュターが読めなかった積み手順を読み切ってしまうと言うほどのことが実際にあった。最後の寄せの読みこそ、コンピュターが一番得意とするところである。その寄せでコンピュターを上回るのだから、この藤井8冠の能力は尋常ではない。

 将棋というゲームには必ず敗因がある。良い手だけを指していて負けると言うことは無い。必ず、負けに至る一手がある。その判断ミスが敗因と言われる手になる。間違えなければ勝てるゲームなのだが、まったく間違えないと言うことは人間にはあり得ない。

 この勝因ではなく敗因が明確なのところが将棋の面白さだ。人間が生きる事も、敗因が重要ではなかろうか。失敗から学ぶ。上手く行かなくて当たり前。ダメでもいいじゃん。成功ばかりしているという人というのは、失敗に近づかないのかも知れない。

 コンピューターだって間違える。間違えの頻度が少ないだけだ。将棋では最後になるほど間違えが、大きく勝敗に影響すると言われてきた。その意味で藤井将棋は、後半の間違いの少なさが圧倒的なのだ。そして、後半の相手の間違えをとらえて逆転することが、勝ち方なのだ。

 しばらくは、タイトル戦で負けるまでは藤井8冠はタイトル戦だけで戦う。後は四つあるトーナメント戦だけになる。現状ではその四つのトーナメント戦もすべて優勝している。だから8冠ではなく実は12冠だとも言えるのだ。棋戦すべてを制覇している。

 タイトル戦では6割の勝率であれば、タイトルを維持して行ける。3勝2敗か、4勝3敗で良いのだ。当分8冠が続くと見なければならない。トーナメント戦の方は10割の勝利をしなければ優勝できない。しかし、トーナメント戦は持ち時間が少ない。持ち時間の少ない将棋では、若い方が有利と言われている。30歳くらいまでは藤井8冠が一番若いという時代が続くのではないだろうか。

 藤井8冠の容貌を見ていると、だんだん人間離れしてきた。ある種の修行を重ねた人特有の茫洋とした表情の時が多い。喜怒哀楽が表れないというか、並の人間とは違う世界に入った感がある。千日回峰行を3回やったかのような、得体の知れないものが漂う時がある。

 敗れた永瀬王座は「人間を止めている」と感想を漏らしたという。確かにそうなのだ。人間ならば時々間違って当然なのだ。疲労蓄積もある。前の発想を引きづる。違う考えが湧いてくる。ところが、極めて間違いが少ない。そこが人間離れしていると言うことだろう。たぶんコンピューターと戦う感じだろう。

 藤井8冠は「藤井さんは人間がどこまで強くなれるのかの限界を歩いている。」羽生元7冠はそう語っている。それは次の社会に於いて、人間とコンピューターの関係を考える一つの参考になる。すべてにコンピューターの方が有能になる中で、人間の幸せがどこにあるかである。

 今生成AIが出来て人間の暮らしにどう影響してくるのかが問題になっている。将来失われる仕事、有望な仕事と、次の時代に生きて行く人には大いに気になるところだろう。藤井8冠は次の時代を生きているのかも知れない。コンピュターの方が優秀になる中での人間の生き方である。

 模擬裁判をコンピュターで試みている人達がいる。早くそういう状況まで、コンピュターが進んで欲しい。人間の恣意的な判断よりも客観性があって良い。現状ではコンピュター判断を裁判官の判断とは別に、公表を義務化したらどうだろうか。少なくとも、先ずは憲法判断はコンピュターに任せたい。自民党は反対するに違いない。

 コンピュターは融通が利かないだろう。法律は融通が利いてはダメだ。特に憲法を政治がないがしろにすることは、まともではない。政治不信の原点になっている。政治への無関心の原因はどうせ政府は勝手なことをやるという思いにある。政治不信がここから生まれている。

 絵のことを考えれば、絵画というものの意味は、描くという行為の意味に集約されて行くと言うことだ。どれほどコンピューターが優秀な絵を描こうとも、人間が味わう描くという行為から感得するものとは別世界のことになる。これからの絵画は描くことをどこまで深く味わうことが出来るかが重要になってくる。

 絵画はコンピュターの方が上手に描く時代がすでにきている。写真は絵と違うことが分かるが、コンピュターが描いていても、人間との判別が出来ない時代が来る。にもかかわらず、コンピュター絵画なのかと思うような絵を描いている人が未だに居る。こんな人間のいない絵が否定されるだけでも増しだ。

 こだわるのは良いのだが、自分の絵画を描くと言うことに、こだわらなければダメだろう。自分とは何か。この問題を明らかにしようとしているのが、いまやコンピュターである。人間離れした技術というようなものに、何の意味もないと言うことだ。コンピュターは技術ではなく、考え方にすべてがあるということを示している。

 誰もが藤井8冠に勝てない理由は、自分を捨てると言うことが出来ないからだろう。すべての修行は自分というものへの執着を捨てると言うことだ。執着している自分は、自分の入り口である。その奥の奥に本当の自分が存在する。

 その本当の自分を把握することが生きる目的といってもいいだろう。たぶん、把握すれば自分というものが何でもないものだと分かるはずだ。何でも無い生命なのだ。その何でも無い命の有り様を描いてみたいと考えている。何でも無い自分が観ている世界を描いてみたい。

 人間が見て居る世界は決して写真で撮影したような世界ではないのだ。見たいものだけを見ているのが自分の世界なのだと想像している。世界は主観的なものだ。主観的な世界を描くことが、絵画すると言うことになる。そういうことを藤井8冠は示している。

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