25回水彩人展で学んだこと

   


 石垣島を出たところ。

 水彩人展の会場にいる。審査日を含めれば、2週間もみんなの絵を何度も繰り返し見ている。会場で自分の絵は何なのか。どんな状態なのかと思い見ている。家で見ているとは違う。自分の絵が少しよそよそしいことに気付いた。何故なのだろうか。「私絵画」がよそよそしいのでは、まずい。

 自分の絵の中から作為的なものを除いてきた。絵作りするような気持ちを失くそうとしてきた。その結果何かが変わった。ある意味作為的なものが、私を表す何かのようであったのかもしれないと考えた。それを失くすということは、自分の人に見せているような側面が消えるということなのかもしれない。

 人間はなかなかややこしい。自分を消してゆくということと、自分を表現してゆくことは、裏腹なもののように見えて、同じく意図的なことなのだろう。どうすれば、小脳的な描き方にまで行けるのか。あるがままに描いて、自分に至るにはどうすれば、いいのか。

 もう一度反省して、絵を描く原点に戻る必要がある気がしてきた。描きたいという感動した原点に戻る必要があるようだ。感動をしていないのに描いていてはだめだ。日々の一枚にただ従って描いているだけでは、いけないのかもしれない。毎日描くのはいいのだろうが、その毎日に感動が薄れてきたのではだめだ。

 只管打画ひたすらに描く。描くことに心と体が一致する。描く手と描く心が一致するということ。ボーとして意識があいまいになっているとは違う。感動に包まれて、我も忘れて描くことに没入している状態であろう。この点がおろそかになっていたのかもしれない。

 絵を描くことが習慣化して、感動が薄れていたのかもしれない。その為に絵がよそよそしく他人事化してきている。もう一度風景を見て、感動するという原点に立ち返らなければならない。感動がないのに絵を描いたところで意味がない。日々の一枚にこだわりすぎたのかもしれない。貴重な水彩人展であった。

 水彩人では次の小品展の会場を模索していたのだが、今回相模原市民ギャラリーが候補に挙がった。6月末が借りられそうなのだ。一人20号2点づつ飾れる会場である。松田さんが先週までここで相模原芸術協会の展覧会でここを使っていたのだ。良い会場ということで借りられるならと候補に挙がった。

 水彩人展では毎年上野での本展ともう一つ小品展が行われることが決められている。小品展は昨年は松任のうるわしで行われた。今年もどこか地方で出来ないかと模索していたのだが、今回相模原市民ギャラリーで行う方向で、検討されることになった。

 この展覧会を地方展係としてやるのか、小品展の開催部会を作りやるのか、まだ決まっていないが、やれることはやりたいと思っている。相模原なら、小田原から通える範囲なので、あまり心配がない。一番早い電車であれば、1時間かからない。

 もし開催できるならば、この機会はよい目標になる。6月末までに、一新した絵を展示するつもりで頑張りたいと思う。水彩人という仲間がいて本気で絵の表現ができる場がある。このことは幸せなことだ。もし水彩人という場がなかったならば、すぐに自分の位置を見失う。

 絵は一人で描けるが、自分の絵は一人では探せない。今回の水彩人展はそのことを気づかせてもらえる良い機会であった。たぶん昨日、栗原さんと疋田さんが会場で絵の話がしたいといわれたのは、私の絵に問題があるということだったのだと思う。

 直接の言葉は聞けなかったが、十分にそのおかしいとされる意味は理解できた。本気で心配してくれる仲間がいるということはありがたい、素晴らしいことだ。年を取ると頑固になり、方向がおかしくなる。絵が衰える。できる限り謙虚に人の話が聞けるようでありたい。

 水彩人展の今年の傾向として、絵の「場」があいまいな作品が10点ほどあった。花の絵を描いて居るのに、花以外は一色で塗られているような絵だ。ボタニカルアートのように見える。静物画でも描かれた物以外は、ほぼ一色で描くような絵だ。

 確かに水彩画の最近の指導書やテレビのプレパトの水彩画ではそういう安易なイラストを水彩絵の具で描いて、水彩画であるとしているらしい。これは危険な傾向である。去年まではしっかりとした場のある絵を描いて居た人が、安易な水彩画の手順書スタイルを取り入れてしまった人がいる。

 そういうきれいごとの絵を絵と考えるのであれば、上手な絵を評価する他の絵の会に出してもらえばいい。そういう絵画団体もいくつかある。絵はどれほど上手に描かれていたとしても、その人の世界が表現されていなければ、絵とは考えない。下手は絵の内、上手いは絵の外。

 最近悪貨が良貨を駆逐するように、見栄えだけの手順に従い、きれいな絵を描く、表面的な絵が出てきたことは、日本人の劣化だと思っている。時代が弱まるとこういうことになる。即物的なわかりやすいものしか理解できなくなるのだ。世界の絵画の歴史を見れば、社会の衰退と、クソリアリズムの出現は連動している。

 日本の社会は芸術行為とは何かを見失い始めている。精神のない芸術などあり得ない。自己表現が芸術の基本だ。装飾絵画は芸術ではない。きれいにできていて何が悪いのかという人がいる。そう反論した人が会場でも何人かいた。
きれいな絵がいいのであれば、水彩人ではないだろう。水彩人の考え方は設立時の声明文に出ている通りである。

 塗り絵のように手順を覚えて、システムで進めて、一見の見栄えの良い絵が短時間でできれば、それでよかったという世界は困るのだ。確かにそうした安易な絵が売れる絵の時代にになっている。これは資本主義末期の商品絵画の時代ということだ。芸術の崇高な精神が弱まったことによる反映なのだと思う。

 せっかく絵を描くのであれば、精神の仕事にしたい。制作する人間が絵に現れるようなものにしたい。どこの誰が描いたかと言えば、指導書の先生が描いた絵の物まねというのでは、情けないと思う。一見きれいな絵ができたところで、そんな安手の絵を自分の生活空間に飾ることは恥だと思わなければならない。

 そんな絵画のある人の暮らしは精神的な喜びが衰退する。芸術はそう簡単なことではない。これは自己反省である。他人ごとではない。石垣島に戻り、新たな気持ちで絵を描いてみたいと思う。感動から始まる絵。自分というものと対峙する絵。自分の精神を深めてゆく制作。人の振り見て我が振り直せ。

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