家族農業から自給組織の構築へ

世界の農業を支えてきたのは家族農業である。家族で行う小さな農業が日本でもまだ主流である。家族農業はご先祖様から受け継いだ農地を子孫に繋いで行く、いわば一子相伝の農業である。伝統農業はその受け継いだ土地と折り合いを付ける形で継続されてきた。
こうした家族農業が崩壊し始めている。農家を継ぎたいという子供は極めて少なくなった。親も出来ればしっかりしたところに就職してもらいたいと言うことが普通になった。普通の家族農業では食べて行けないのだから、継がせるわけにはいかないというのは、世界中でごく当たり前のことになった。
なぜ一番残って欲しい家族農業が苦しいものになってしまったのか。資本主義の競争が農業にもおよび、生産により有利な地域の農産物が安価にどこからでも輸出入されるようになったからだ。綿の適地で安価な労働力があれば、食べるものも作らず綿を作る。
そして食料を輸入して綿を海外に販売する。いわゆるプランテーション農業である。適地ではない国の綿は競争に負けてなくなる。日本でも江戸時代は綿の栽培は自給分行われていたのだ。どこの国でもそれぞれに衣料の原料を作っていた。
自由貿易という名の下に、車を販売するためには自国の主食作物すら、経営が出来なくなる。農業国が食糧危機に陥る。日本では食糧自給率は38%程度でどうしても改善することが出来ない。岸田内閣ではこの問題に積極的に取り組むとも言わなくなっている。もう諦めたのだろうか。
政府は大企業農家を育てて、食糧自給率を上げようとしているが、実際にはそこで働くのは外国人研修生と言うことになる。もしこの形で自給率が上がったとしても、食糧自給とは言わないのだろう。食料という国の安全保障の根幹が、日本人自身で支えられないのだ。攻撃的軍事力どころではない。
家族農業は実は自給農業の側面があるから、家族の食べるための田んぼと、家のそばの畑だけは続けていると言うことがよくある。つまり自給的農家と農水省が名付けた農家である。終わりを待っているような家族農業である。こうして徐々に家族農業の時代が終わろうとしている。
では、企業的農業が日本の農業のすべてを担うことになるのかと言えば、それはありえないと思っている。企業はあくまで経営を考えて有利な農業を行うだけだ。これから競争が激しくなればなるほど、そういう構造に農業も成って行くはずだ。地域の連携を守るためとか、農地維持管理の為というようなことはなくなる。
家族農業が無くなって行く以上、新しい農業が必要になる。それは市民が行う自給農業だと考えている。小さい農業であれば、企業のような大規模化の必要が無い。傾斜地であったり、細切れや変形の農地であったとしても、その土地に応じた柔軟な使い方がある。
今行っているのぼたん農園の農地はまさにそうした農地である。市民が楽しく自給農業であれば、すばらしい農地になるが、経営で考えればまったく利用が出来ない土地であろう。なぜ市民であれば、この条件不利の農地が利用できるのか。
なんと言ってものぼたん農園は景色が美しいと言うことがある。たぶん日本で一番美しい場所の農地だと思う。景色を何年も眺め続けているが、見飽きることがない。美しい石垣島の中でも、特別な場所だとおもう。この美しい場所で田んぼ作るということ自体が、大冒険に華をそえことになっている。
こういうことはまったく企業的農業には関係の無いことになる。傾斜があるとか、風が強いと言うような作業効率の観点からだけ見ることに成る。のぼたん農園ではわずかな湧き水と天水で田んぼをやっている。これもまた、手間暇かかることで、到底企業農家には考えられないことだろう。
しかし、このわずかな湧き水を水神として祭り、有り難い尊いものだと考えて、使わせてもらっている。汚染のない、ミネラル分を豊富に含有しているこの水を、在りがたいものとみんなが考えている。こういうことも自分が食べる自給だからこそで、企業農家には考えられないことだろう。
作業には水牛を使う。水牛が素晴らしい動物だと言うことがかわせてもらって分かった。水牛よりもトラックターの方が、効率の良いのは当たり前だ。しかし、水牛と共に働くと言うことは、素晴らしい体験である。水牛も喜んで働いてくれて、働いた日の方が、嬉しそうなのだ。
採算を考えない自給農業をやると言うことは、効率とは関係の無い、喜びが次々と出てくる。その土地に適合する農業を探求する。石垣島の水土に合う農業を見付けて行く。例えば、石垣島ではふつう「ひとめぼれ」が作られている。気候に合わないために、生産性は低い。しかし販売可能なお米だから作られている。
のぼたん農園では、石垣島の気候に適合するイネの品種を探して作っている。その結果、ジャポニカ種とインディカ種の交配種が向いていることが分かった。何とかそうした品種を探して作るところまで進めたいと考えている。「とよめき」は少しそうした傾向のお米である。
売れなくてもかまわない。作りやすいお米が自給には必要なのだ。味は自分が納得いけばそれでいいのが、自給である。目標は毎月新米を食べると言うことである。毎月稲刈りをする。お米の保存が難しい石垣島であれば、保存しないで、一ヶ月で食べきる形が良い。こういうことも企業農家であれば考えないことだろう。
ひこばえ農法を目指している。一度田植えすれば、7回収穫を続けるというものである。スマトラ島にある農法である。最近では中国の南方でも行われているらしい。石垣島の高い気温であれば可能である。一年中稲は枯れることがない。この農法もいかにも自給農業向きである。
アカウキクサ緑肥である。アカウキクサの窒素固定能力を利用した方法である。しかもアカウキクサが水面を覆うために田んぼ雑草が発芽がおさえられる。肥料を持ち込まずに、上手く循環して行く永続性のある農業である。これも自給的農業であるからこそやれる農法である。
市民が集まり行う自給農業には家族農法よりも優れたところがある。協同できると言うことだ。のぼたん農園では30人の仲間だが、参加者にはそれぞれに特徴がある。その特長を生かして、全体でのぼたん農園は有機的な結合が生まれてきている。
今度、新しい田んぼグループがが生まれようとしている。そことも連携を持ちたいと考えている。次の時代の農業は企業的農業と、市民的自給農業の2つが、上手く棲み分けて行くことになるのだろうと考えいる。