何故自給農業は面白いか

コーヒー苗植え付ける。11月1日に植えた。5年先に自分の育てたコーヒーをトゥリーハウスの上で飲むのが目的だ。何でそんなことが面白かと言われればそれまでだが、コーヒーはどうした、どうしたと毎日様子を見に行かずにはいられない。
農業をやっていて面白いのは、分らない挑戦をしているときだ。2021年の暮れにのぼたん農園の開墾を始めた。丁度3年がたった。計画では6家族が暮らせるものだった。ひと家族が100坪で自給できる構想である。田んぼが2畝畦の畑が1畝である。
それが12枚の田んぼを作ることになった。12家族がと思ったのだが、3年目にして最初の計画通り、6枚の田んぼに戻った。湧いている水の量が最初の予測した通り、6家族分しかなかったのだ。残りの6枚は先ずは畑にしておこうと考えている。
それにしてもここまでの3年間の開墾作業はなかなか充実して、面白かった。こんなに面白いことはまず無い。まだ石垣での自給農業技術は確立できていない。それは田んぼの土壌も確立できていないと言うことでもある。3年間試行錯誤してきて、石垣の気候と土壌が、少し分ってきたとは言える。
分らなかったことを分かりたいと言う欲求が、原動力になる。石垣島には有機農業は確立されていないと見ている。有機農場を見学させて貰ったことはあるが、パイナップルの八重山ファームは出来ていた。収量は半分位と言われていた。やられていた、あるいはいるという人には何人かお会いしたが、収量を上げていない。
確立された有機農業は慣行農法よりも収量が多いはずだ。亜熱帯ではそうは行かないと言うことなのか。昔は誰もが有機農業をやっていたと主張する人が良くいる。昔の有機農業時代の石垣島の稲作の収量は5俵止まりである。可能な限り昔の資料に辺り調べてみたが、その程度の収量である。
8俵を超えていなければ、自給農業が実現できたとは考えていない。何故収量にこだわるかと言えば、それ以上に説得力のあるものはないからだ。日本の農業は1%としか有機農業はない。それは有機農業者が慣行農業の人に較べて収量が少なくて当たり前だと考えているからだ。
有機農業が優れた農法であるなら、一般の慣行農法よりも満作になり、収量が採れるはずだ。私は小田原ではそれを実現してきた。ただし、手間暇がかかることと、その技術は確立するためには、困難があり、時間がかかることは止むえない。すぐにでも出来ると考えるような人は有機農業の経験の無い人だ。
今困難に直面しているのは、石垣島の気候に適合した品種がないことだ。これでは有機農業は難しいはずだ。気候に適合した品種がないために、ひとめぼれとミルキーサマーとゆがふもちが奨励品種であるが、どれも13枚の葉しか出ない。本来15枚葉の出る品種である。徒長気味に軟弱に育ってしまうのだ。
奨励品種を3年間栽培してみた。その結果努力しても15枚葉は出ないし、到底収量は5俵止まりで上がらないという結論を出した。ともかく品種を探さなければならないが、誰に聞いても結論としては「ない」と言うことになる。気候の近い台湾は日本よりも収量が多い。しかし台湾の品種は手に入れる方法がない。
そこで4年目は「にじのきらめき」を播種する。栽培歴を見ると中手とある。にじのきらめきで15枚葉が出れば良いのだが、今のところ可能性は低いと思える。しかし、可能性はあるかもしれない。そう思い挑戦してみる。そこが自給農業の一番の面白さだ。
新しい誰も試みたことの無いことをやってみる。これほど面白い冒険はない。のぼたん農園を初めてここが一番に楽しい。細い湧き水から、田んぼを造築する。石だらけの土壌が毎年の石拾いで、すこしづつ石の無い田んぼになってきた。それだけでも他にない満足がある。
まだ、豊かな土にほど遠いが、何とか5年間の間に土作りに目途を付ける予定だ。浸透性はある腐植が十分にある土壌。それが土作りの目標だ。乾くとすぐにコチコチになるような土壌ではダメだ。腐植の増やし方を研究しなければならない。山から落ち葉を取ってくることも始めたい。
「ひこばえ農法」と「あかうきくさ農法」の確立である。すこしづつ管理できるようになってきたが、ひこばえに対する追肥の具合が見えない。一期作の稲刈り前のどの段階で追肥をするのが良いのか。どの段階で土を乾かし、どの段階で水を戻すのか。この辺も試してみたいことが山ほどある。
アカウキクサの増殖のタイミングはどうもリン酸肥料に反応している。林産を何時入れてアカウキクサを増やすか。そしてそれをどのように稲の肥料にするか。この辺りをさらに研究しなければならない。誰でもが可能な農業技術にまで高めなければ意味がない。
農業をやっていた人はみんな知ったかぶりで、教えたがり屋である。しかし、実際にはイネの葉の数さえ知らない場合が多い。科学的な発想をしていない。科学より経験を優先するのだろう。知ってはいるが、技術にまでは確立していない。技術として確立されていないものは教わりようもないのだ。
だから、教えたがり屋の方にはいつも言う。農地を提供するので一緒にここでやってみて下さい。そうすれば学ぶことができるからと言う。ではやろうじゃないかと言ってくれた人は一人もいない。MOAの技術指導員の人も色々教えてはくれたのだが、この畑で一緒にやって見て下さいと言ったが、やってはくれなかった。
要するに出来ないのだと思うしかない。出来る自信がないのだ。できないなら言わなければ良いのだが。指導していただき正しかったのは、松本の石渡さんだ。科学的発想が図抜けている。畑や田んぼは同じようでいて、みんな違う。その場その場で臨機応変に対応しなければ、自給農業は出来ない。
その応用できる力を含めて観察力を高めなければならない。感じる力がなければ始まらない。葉の色をみて、根の状態が分るようで無ければならない。土壌の状態が明確に分らなければダメだ。農業技術は観察力に裏打ちされなければ成り立たない。
その観察力は同じ圃場で、同じ作物を作らなければ学ぶことは出来ない。のぼたん農園はそういう勉強の場だ。自給農業の学習の場だ。一緒に耕作して共に学ぶ。のぼたん農学校だ。誰でも受け入れているので、一緒に学びましょう。私も出来ていない。でも自給農業技術の完成を目指して、探求していく事が大切だと考えている。
ここは科学的考え方をする農場である。摩訶不思議もないし。念力もない。科学的思考だけである。ただ愚直に実現を目指して努力をしているだけだ。所がこれが実に面白いのだ。出来ないかも知れないことに挑戦すると言うことは、限りのない冒険の道だ。この面白さは続いてい行く。何としてもやり遂げたい。