上川大臣の立派さとルッキズムの問題

   



 自民党の麻生太郎副総裁が2日、上川陽子外相の容姿を揶揄した発言を撤回した。この問題をめぐっては、「どのような声もありがたく受け止めている」という上川氏の反応にも波紋が広がっている。「毅然(きぜん)と対応して欲しかった」との指摘があがる一方で、「責めるべきは麻生氏の側だ」と擁護する声もある。ーーー朝日新聞

 上川外務大臣は立派にみえるかたである。外交官として、日本の代表として見事な方だと思っていた。見た目の良い外務大臣で悪くないと言うくらいにみていた。そして麻生発言に対する対応も外交官らしい余裕のある態度と考えて良いだろう。

 いったい麻生氏は外務大臣にどんな見栄えが必要だと言うのだろうか。この思い違いが女性に対する評価の卑しさを表わしている。最初何を失言癖の麻生さんが言ったのか良く理解できなかった。そうしたら、見た目が美人じゃないというようなことを発言したらしい。

 こんな馬鹿らしい筋違いの冗談は下品だろう。麻生氏が上川氏を持ち上げたのは、相手総理大臣候補ならどうだろうと揺さぶったのだ。むしろ、岸田氏にたいする嫌みのようにも見えた。お前はもう変えても良いのだと言いたかったのだろう。

 外務大臣は人間的な魅力が必要なのだ。見識と良識と品格があって、しかも押し出しも良い人であって欲しい。外交案件の報道官ではないのだ。美人であるからそれで良いというようなものではない。上川氏は近年の日本の外務大臣の中では、貫禄があって見た目がピカイチだと見えた。今まで全く知らない人だったのに、正直期待できそうだと思えた。

 容姿端麗が外交官に必要条件ではないかと言えば、それはそうかもしれない。見た目の素晴らしい外務大臣であれば、そうでないよりは外交上有利になることも無いとは言えない。それがおかしな事であるとしても、国益とはそういうことではないだろうか。クレオパトラがわざわざ取り上げられるのはその事例だろう。

 その意味で上川外務大臣は自民党嫌いの私でも、つい見た目で評価していた。人相が座っていて、なかなかいい。これもルッキズムで良くない発言になるのか。慣れない外来語はできるだけ使わないことにしているのだが、見た目主義ではどうも違う。容姿を人物評価の価値基準に加える。あるいは見た目を重視しすぎるというような言葉の気がして、ルッキズムを置き換えにくい。

 実はルッキズムの問題は差別の問題なのだ。容姿で差別を受ける側の問題が大きく、差別を受けては居ない上川さんの問題ではない。麻生さんのような人は、見た目で人をいかにも差別しそうなので、問題になるのだ。しかし、私も麻生さんをあのギャングのような帽子をかぶった見た目で下劣な人だとつい思っていた。

 差別と言えば差別をしていた。なにがルッキズムかは分からないが、アベの顔がテレビに出ると、気持ち悪いと目を背けていた。これも無意識のうちに外見で差別していると言うことになるのだろうか。いや、正直に言えば見た目で人を判断してきた。ある意味見た目で差別をしているのだ。それは間違えなのだろうか。

 怪しい人を判断できなければ、この危ない社会で生きて行けない。電車の中に、あれ、という人が居れば、静かに離れた方が良い社会である。新幹線に火を付けるような人が居るのだ。見た目で人を判断せざる得ない社会と言えるのではないか。これは人間の本能のようなものだ。

 日本画には美人画というジャンルがある。西洋画で言えばモナリザは美人画ではない。人物画である。ただ真実の人間に迫ろうと描いて、その人間の探求がルネッサンスだ。解剖まで必要とする美人画はない。日本の美人画の多くが人間性やその本異質には踏み込まない。

 容姿の作りをだけを問題にしている浅はかさが、ルッキズムを生むのだろう。そんなものは絵画ではない。いわゆる商品絵画の一ジャンルである。見た目の意味を分けて考えるべきだ。人間の本質はやはり見た目に現われている。人相見ではないが未来まで現われている。私は高校2年の時に、同じくラスの生徒一人一人の家族を見た目だけで言い当てる事ができた。

 女性の職業では結構こうした見た目だけ基準が就職試験で重視されているのではないだろうか。女性の職業の花形が、女子アナというのはどうかと思う。北朝鮮の女子アナは、いかにも北朝鮮の世界観を表現している。日本の女子アナは日本人の差別意識を反映しているのかも知れない。

 韓国の美容整形の流行は、いかにも韓国の女性差別を表わしているような気がする。多分韓国のエンターテイメント産業が世界に通用したのは、まさに世界にある差別を突いたのではないだろうか。何を世界が望んでいるのかを外見に絞り込んで表現した。

 あの人間からかけ離れた人工的な印象は、作り物の方が、実際の人間よりも望ましいという、ロボットに置き換えられるような世界を示している。実際の人間に迫るルネッサンスから、本物の人間は煩わしいという、存在論的な空気を反映させている。

 今の時代こんなことを誰も発言できないが、職場の花と言われた時代があった。花ならきれいな方が良いと言うことになりかねない。若い華やかな花の方が良い。この感覚がおかしいと言うことになった。しかし、本音のところで差別は良くないが、やっぱりなんとなく、自分も差別しているような不安がある。

 履歴書には写真を貼る欄があったらしい。私は履歴書を書くようなことは経験が無いので、実物は知らない。昔ならバスガイドに、デパートガール、オフィースレディー。その言葉自体がルッキズムを含んでいるような気がする。見た目を完全に無視することは人間には不可能なのだ。

 見た目で危険な人物かどうか判断をするだろう。目つきが悪いというようなことで、面接でやたら落とされた美術部の先輩がいた。般若さんである。自分でそう言われたのだ。この人は本物の人格者で私が大学で様々学ばせて貰った方だ。会社でも地域社会でも尊敬を集め素晴らしい仕事をされている。

 場面と関係のない外見評価によって差別を受けることをルッキズムという。年寄の私であれば、若く見えると言うことが褒め言葉になる。あるとき、お婆さんから、何歳かと言われた。71歳ですと答えたら、まじまじと人の顔を見て、随分苦労をしたんだね。と言われた。

 瞬時には意味が分からなかった。苦労して立派になったたと言うことを評価されたのかとも思ったが、このお婆さんの得意とする攻撃法なのだと言うことを、少しして理解した。見た目で差別される機会も余りないが、思わぬところで見た目差別を受けてびっくりだった。

 多分女性の場合はこうした差別を頻繁に感じているのだろう。太っているという差別がある。努力すれば痩せられるのに、努力の出来ないお前はだめだという差別だ。これがルッキズム問題の始まりらしい。

 
 

 

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