1968年 乗船名簿AR-29

      2025/04/24



 「乗船名簿AR-29」NHKで放映されたドキュメンタリー番組である。19歳の時のことだ。偶然この番組を見て、自分の何かが変るほどの衝撃を受けた。映像の力をまざまざと感じた。相田洋さんと言うディレクターが作った番組である。

 その時10年後にまた撮影すると約束をする。そして、10年ごとに移民した人々の軌跡を継続して50年間撮影をした。そしてついに82歳になる相田さんは、50年後を2019年に撮影する。この番組を見て50年間の人生の様々に改めて感動をした。人間の生き様はすごいものだと思う。

 相田さんは満州生まれである。母と弟2人と3人で9歳能登期に命がけで引き上げた。その体験が番組制作の根底にある。自分の体験を元に、政府の移民政策への問題意識を膨らませる。移民船に乗る人々の、希望と不安を映像に記録する。

 この番組を見てから、移民いや、この番組では移民ではなく「移住」としている。何故か、NHKは移民ではなく移住を使う。移民は差別用語なのか。移民でなければ伝わらないことがあるのに残念な点だ。移住は私が石垣島に来たような、引っ越しを含んでいて甘くなる。

 日本の社会は知らない人を受け入れるようには、出来ていなかった。数代前までは、地域地域に家系まで熟知した人々が、寄り集い暮らしていた。閉じた社会である。戦後になり、日本人が都市に暮らすようになる。戦前社会は鎖国の影響の残る前の時代である。今でもその残存が日本の社会に残っている。

 難民、移民、棄民、遺民、避難民、逸民、移民、下民、逸民。様々な日本語の民がいる。定住していない人に対する差別が日本社会にはあった。江戸幕府の定住政策によるものだ。身分制度からはみ出る人々を士農工商以下の人として、差別をしていた。その残影が日本社会にはあった。

 50年数年前までは海外移民が、国によって奨励されていた。最後の移民船が、1973年2月14日に横浜を出航した「にっぽん丸 」である。285名が南米を目指して移民した。笠戸丸から65年間で約25万人が船で集団移民したが、その移民の時代はこの船をもって終わった。

 戦後の食糧難時代。日本全土が開墾された。それでも耕作地が足りずに農家では、長男以外は外に出る以外になかった。引き揚げ者と戦後の急速な人口増加で、日本全体で人がはみ出てしまった。食糧不足と、耕作地不足。政府は移民を奨励し、国民を棄民してしまった。

 畑に出来る土地はすべて開墾され畑になった。子供時代の藤垈では、開墾がまだ続けられていた。今すべてが山に戻ってしまったが、あの頃は向昌院の周りの山は、見渡す限りが段々畑に開墾された。すべて手作業の開墾で出来た畑だ。坊ヶ峯の開墾には一緒にリアカーで行った。開墾した畑は自分のものになったのだ。

 南米移民とは別に、植民地支配のために、台湾、朝鮮半島、満州と外地と呼ばれた地域に出て行く人々がいた。満蒙開拓団という、中国人の土地を奪う略奪民が募集され奨励されたようなものだ。海外に雄飛すると持てはやされた時代さえあった。実は、日本帝国主義の植民地支配の入植者開拓義勇兵なのだ。

 まさかその日本に、海外から人が来るようになるとは、想像が出来ない現状である。外国人労働者という、移民にも含まれない年限の限られた、一時雇用の労働者である。最悪の選択だと思っている。企業は労働者を必要とするので希望をしている。

 労働者として受け入れるのであれば、移民として受け入れなければならない。日本にはその覚悟がない。そのために曖昧な技能研修制度で来日する。日本の永住権の獲得や、日本国籍を取るまでには長い道のりが待っている。都合の良い労働力補充なのだ。ずる賢いやり方だ。

 移民でブラジルに渡った人が、日本に出稼ぎに来て生活をするようになったのが、すでに30年前である。移民関係者は優先的に日本で働くことが自由に出来たのだ。いかにも日本のご都合主義が、ひっくり返ってここに現われている。こうした政策が良い結果を生むはずがない。

 この逆転現象は衝撃的なことだ。農家の次男坊には、働きたくても働く畑がないので出て行く以外にないという現実から、日本が人手不足になり、ブラジル移民の関係者を日本に呼び寄せ無ければ成らないという様変わりである。政府の愚かな判断が国民を翻弄する。

 私の親類にも、アメリアに移民花嫁としていった人が居る。中学の同級生には、親がブラジル移民から戻った人も居た。また、おじさんがボリビアに居るので、高校を出たら行くと言っていた人も居た。人の人生は様々である。騙されて理想郷を夢見て移民をして、忽ち行き詰まり日本に戻る人も多数存在する。

 ドミニカに移民した人達はまさに棄民である。政府が募集の時に説明していたことと、現地の状況はまるで違っていたのだ。政府に騙されたドミニカへの移民。政府に対して訴訟をするが、時効と門前払い。ドミニカだけでなく、多くの日本人移民が、日本政府に騙されたように移民したと考えて良い。

 こんなはずではなかったと早く諦めた人はまだ良かったと言われている。早く諦め都市に出た人には道が開けた人が多い。人並みはずれた体力と精神力が強かった人が、むしろその不毛の土地にしがみついて、戦い続け精神を病んでしまう人が多かったそうだ。日本と土壌や気候が違うことが原因したようだ。

 石垣島へ移住して、農場を始めた。この体験で、すこしづつ熱帯の土壌の困難さが分った。小田原で農業をしていたときとは、土壌の成り立ちが違う。作物を作ることの困難さが倍増した。様々な土地に農業移民した人達が、特に熱帯の土壌の違いに行き詰まったのではないだろうか。

 日本本土の土壌は実に豊かなのだ。山でも耕せばすぐ作物が採れるのだ。私が山北の山中で開墾生活を始めて、3年で自給が出来るようになったのは、まさに丹沢山中の豊かな土壌と、温暖な気候の御陰だったのだ。入植地がブラジルであれば、たぶん石垣島でも挫折していたはずだ。

 もし石垣島であれば、10年はかかったはずである。10年は耐えられなかった。農業はその土地に合せて行わなければ出来るはずも無い。ゴム栽培で失敗した人も居れば、胡椒栽培で成功した人も居る。行く前にどういう土壌で、何を作れば良いのかを調べることが政府の行うべきことだったのだろう。台湾から石垣島に入植した人は、土壌を見てパイナップルならできると判断したそうだ。

 人減らしが出来れば構わないと言うことで、政府は移民ではなく、棄民をしたのだ。そして今、何の準備もなく海外からの労働者を受け入れようとしている。日本人を募集をしても集まらない職場を、外国人の方々が補ってくれている。背に腹は代えられないと言うが、いかにもこれはまずいことだ。

 乗船名簿AR-29を日本の公務員は全員見て欲しい。政府が決めて、良いと思い奨励したことが、どのような結果を生むかである。二度と移民政策は行ってはならない。同時に移民や外国人労働者の受け入れも、よほどの覚悟がなければ出来ないと言う事だ。外国人労働者問題は、企業の都合に合わせてはならない。


 

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