連ドラ「エール」の戦争責任の表現

   




 戦争音楽家古関 裕而を主題とする連続テレビ小説を、何もオリンピックにかち合わせてやらないでもと思っていた。日本人を鼓舞して戦争に送り込んだ責任をどう描くというのだろう。疑問を持って連続テレビ小説を観ていた。観ていたというより、見せられているような気分だった。

 その昔のど自慢の審査員で古関氏はテレビに出演していた。何故、ヌケヌケとのんきにのど自慢の審査などしていられるのだろうと思ったものだ。にこやかな良い人にしか見えなかったが、何故あんな軍歌を作ったのだろうと、音楽は怖いと思っていた。

 生意気な高校生の浅はかさで、戦争の中で生きた人のことをよく分からないまま断罪していた。何故戦争歌謡をで国民を高揚させた人が、当たり前の顔をしてシャーシャーとテレビに出てくるものだと見ていた。「長崎の鐘は鳴る」で戦争責任を解消したとでも思っているのかと単純極まりない見方をしていた。

 子供の頃に「とんがり帽子」も「露営の歌」も歌ったことがある。何故あんな歌を歌ってしまったのだろうという思いが今でもある。戦災孤児から浮浪児生活。あの頃のことは人には話せないことだと戦争浮浪児だったその方は言われた。いままで古関氏には良い思いは持てないまま、このドラマは戦争協力者をどう扱うのだろうかと思っていた。

 ある意味見たくないドラマだと思っていた。どうごまかすのだろうかと言うことだった。しかし、すこし違っていた。どうもこのテレビドラマは戦争責任は今そこに生きている「あなた」にあると言っているようなのだ。戦争責任はその時代に生きたすべての人にある。何故人間は善意であるとしても、戦争に加担してしまうのかという問題である。

 今の自民党政権は戦争への道に進み始めている。そして、有権者はその自民党を支持している。軍人だけが戦争を進めるのでは無く、無意識の大衆が戦争を推進してしまう。戦争を必要悪と考えるようになる。必要悪であるから、協力も必要なことになる。

 4つの形の戦争責任が表現される。
1,戦争推進者としての元陸士出身の義理の兄の戦後の屈折と屋台のラーメン屋としての再起。
2,戦時中戦争反対をして憲兵に捕まる義理の弟は戦後野球のグローブを作る。
3,無自覚なまま軍歌を作り戦争協力の先頭に立つ、古関祐嗣。
4,古関の福島以来の幼なじみの歌手は、古関に誘われて軍歌を歌う。その後その罪にさいなまれるが、古関の高校野球の唄を唄うことで救われる。
 
 反戦主義者として特攻にいじめられる、義理の弟。弟がグローブを作ることでの戦後社会での立ち直り。これはベースボールというものがアメリカの民主主義を表しているではないかと思う。大島渚監督は夏の妹の中でそのように描いていた。戦争への時代に生きると言うことにどのような選択があったのか。軍馬の鞍から、平和のグローブ作りへ。

 陸士出身の職業軍人は直接的に戦争責任を受け止めるわけだが、陸士仲間の会社への良い誘いを断り、屋台のラーメン屋を自分の道と考え、生き方を捉え直すことが出来る。むしろ、間接的な戦争協力者よりも、反省に基づく新しい生き方を見つけることになる。これは現実とはかなり違う。本当に生涯廃人として生きた職業軍人を数人知っている。

 戦争責任はすべての国民にあったと言うことなのだろう。たとえ、戦時中反戦主義者として生きたとしても、その人も戦争責任を負わないで良いというわけではない。積極的に職業軍人として戦争に加担した人と反戦主義者にも変わらない戦争責任があると言う考え方。

 そして、どちらでもない傍観者であり、受け身の国民すべてが、本質的に戦争協力者なのだ。それが古関氏という、作詞家では無く、作曲家としての軍歌の王者の位置づけになる。詩人高村光太郎は戦争責任を感じて、隠遁生活に入る。その時代に生きた人であれば、かわらない責任があると言うことだろう。
 
 戦争の時代に進みつつある今の時代に生きて、日本をどうやって、戦争をしないように出来るかがこの「エール」というドラマのテーマでは無いのだろうか。もし戦争への道を止められないのであれば、戦争に賛成であろうが、戦争に反対であろうが、等しく戦争の責任は負わなければならないと言うことになる。

 思い出したのだが、戦争に積極的に協力した国防婦人会の人達はどう戦後を生きるのか。何も無かったように生きたので、ドラマには出てこないのか。

 福島原発事故があった。その責任は日本人すべてにある。推進した人には確かに重い責任がある。しかし、裁判では誰の責任も問えないと言うことのようだ。責任があるとすれば、日本人全員である。原発を止めることが出来なかった全国民に原発事故の責任はある。

 しかし、1,当事者たる東電の責任。2,そして原発を推進した政府の責任。3,原発を誘致して、恩恵を受けようとした原発の地元責任。この3つの罪は国民一般よりも重いのではないかと思う。しかしそれはあくまで軽重であって、すべての国民に責任が無いとは言えないというのが、エールの考え方。

 コロナ感染症のパンディミックも同じである。責任のない人などいないのだ。責めるとしたら、自分のことから始めるほかない。人間がこう言う暮らしをしていれば、必ず感染症が人間を襲うはずだった。たとえ、それを警告した人であっても、同じく責任がある。

 マイクロプラステックは際限なく増加して、今やどこの誰であっても、年に5グラムのプラステックを取り込んでいるのだそうだ。これは生き物すべてが遠からず変調を来すに違いないという事態である。この責任も等しく誰にでもある。

 すべては文明の方向が間違っている為である。ではアーミッシュのように前近代的に生きていれば、責任を免れるのかと言えば、それでも責任は回避されない。人間には等しく間違った方角を変える責任がある。文明をの方角を変えることが出来なかったすべての人類に等しく責任はある。もうギリギリの所に人類は来ているのだ。

 茹でカエルたる人間はこの大きな誤りにまだ気付こうとしていない。残念ながらもう時間の猶予は少ないだろう。このままの経済競争主義では人類は終わるに違いない。さて終わるとしても、あと30年は持つだろうだから私には関係が無いと言っていて良いのだろうか。良いわけがない。

 最後に書いておくが、世界を変えることはそう難しいことではない。自民党や維新の会に投票しないことだ。自民党の新自由主義経済の方向は戦争への道だ。経済的にどれほど損をする結果であっても、敗戦して被る莫大な損出よりはましだ。中国とアメリカにそそのかされ、戦争に巻き込まれるのだけは、よして貰いたい。

 

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