水彩画は風景と向かい合う。

   



 50号の繪をAtelierCarの中で描いてみた。なんとか描く事ができた。この絵はあとで、40号ぐらいにした。大判全紙までなら、AtelierCarの中で楽に描くことが出来る。これは大収穫である。ちょっと大きく描きたいと言うことがある。

 絵を描くときには風景と向き合う。写生から始めるので、必ず風景を前にして絵を描く。当たり前のことのようなことだが、案外にこう言う描き方をしている人は、現代では少ないのではないかと思っている。写生画と言うことである。水彩材料は写生に向いている。
 風景と向かい合うことで、自分というものと向かい合う。絵を描くと言うことは自分と向かい合うことだ。制作というと、自分と画面とが向かい合うと言うことになる。その絵を描く自分というものをどういう精神状態に置くかである。

 写生画においては風景を見ているという自分を重視する。アトリエで画面と向かい合う自分を内部的な自分との対峙とすれば、風景を見ている自分は自然物としての自分だ。風景の中に居る自分がどういう反応をするかと言うことになる。

 画面と対峙する内部的なエゴの自分は消えて行く。良い絵を描こうというような独善の自分は消えて行く。見えているものと対峙して、自分という何者かが見えている風景を、どのように見て、どのように捉えて、画面に置き換えて行くかと言うことになる。

 良い繪を探求すると言うより、自分という人間の受け止め方を重視する。その受け止め方からむしろ自分という人間を確認して行く作業である。何故自分はこの場所に惹きつけられ、その惹きつけられている要因を画面の上にどのように置き換えれるのかである。

 その結果が繪として面白いかどうかは、重要ではない。底の底まで行けば人間の本質が表われてきっと、面白いことになるだろうとは思っている。しかし、それは方角のことであって、結果を重視しているわけではない。表われた繪の結果が前の繪よりも、進んでいるのかどうかが重要だと思っている。

  絵はひたすら描いていると、あるとき自分の絵に近づいたと感じさせてくれることがある。繪として良くなったとか、美術史的に見てどうかとか、そう言う大それたことでは無いが、何か自分が描いたものだなんだなあ。と納得が行くことがある。良くなるとかどうかよりも、自分になったかと言うことを終わるときに決めている。

 こう言う絵の描き方を「私絵画」と呼ぶことにした。私絵画は商業主義絵画の時代の芸術としての絵画の劣化に対して、絵画が息の根を止められないための在り方である。芸術としての絵画はそれくらい社会にとって重要であると言う、逆説的な意味づけでもある。

 芸術は人間の真善美である。自然の中にある、真善美をどこまでも求めて、芸術が人間の希望になることである。自分という存在を通して自然中に真善美を探ると言うことでもある。

 ここで言う真善美とはプラトンの概念を借りたのだが、普遍的な価値という意味だ。大げさに説明すれば、自分の中に徹底して降りて行くことで、自然と一体化し、宇宙の真理に至るというような気持ちである。大上段な説明で、絵を見ると恥ずかしい限りだが、向かって努力している。

 公募展などではまずは見ない描き方になる。公募展が大きな絵が中心になり、現場に大きなキャンバスを持って行けないと言うこともあるのかもしれない。ただし、水彩画はそもそも大きな画面を描くような方法ではない。

 いつも私が描いている大きさは、中判全紙という紙のサイズが、56センチ×77センチという大きさである。大判全紙も描いているが、70センチ×87センチ。世界的に見ると、中判全紙が水彩画では大きい方である。この全紙サイズというのは、紙の漉き方によって大きく変わる。

 ところが、日本では何故か画面が大型化した。たぶん公募展という場が、人と比較して勝負をするというようなところがあるので、より大型化したのではないかという気がする。巨大な油彩画に紛れて、目立たなければならないとなると、水彩画の本質とは別に巨大化した気がしている。私も大きいものを描いていたときがある。

 中判全紙までのサイズであれば、現場での写生で進めることが出来る。だから、小さい水彩画を描く人は一般に現場主義の人が多い。私の場合、現場に立たなければ、すべてが始まらない。これはもう40年ぐらいそういう状態である。

 描きたいと感じた場所で、その風景と向き合う。その風景と渡り合う。哲学的に言えば、対峙する。気持ち的に言えば勝負する。自分という存在を見えている世界に、対面させる。正面から風景に出会う。繪にするとか、絵になるとか言うことでは全くない。風景とまず出会うことである。

 ただ風景を息を詰めて見ている。何を描くかのかを突き詰めている。わからないので、なかなか始まらないのだが、どこかで見切り発車で没入する。始まれば後は自分は反射する機械の眼のような感じで、頭はほとんど使わない。何をやっているのかも、よく分からない。

 やったことすら分からなくなるので、自分でもう一度同じ事をすることがなかなか難しい。出来ない方が良いのだが。いまも昨日描いてきた絵を見ているのだが、あそこはどうやったのだろうかと思い出しても不思議なような気がする。

 良いなと思うところがどうやったのかが分からない。だから、何度やっても自分の方法というものは出来てこない。ここがいいと思っている。ともかくいつも何もないところからの出たとこ勝負で風景にぶつかって行き、何かを発見する。要するに偶然任せである。

 アトリエで風景を見ている。絵を通して風景を見ている。その時思い描いて見ている風景は心の中の風景である。この心の中の風景画とても意味があるようだ。描いた風景を絵として見ては居ない。見ないようにしている。絵としてみると良くする方法など考えて修正主義になる。

 絵は直して良くなるなどと言うことはない。ここがダメだから絵がだめだというようなことはない。ダメな絵はどう直そうがそこそこのものでしかない。絵はそこそこのものは無意味である。そこそこであるぐらいならダメなままで良い。

 直して良くならないことを知っていながら、ほとんど直しをしているとも言える。行き先が分からないからだ。絵を描くと言うことは分からないというまっただ中に入ると言うことだ。自分というものが分からないからだろう。

 

 - 水彩画