車アトリエは無限大
昨日の制作過程公開の後で、描いた絵。
この二枚の絵は三番と四番の絵をさらに描いてみた物。
車の中で毎日絵を描いている。その日一番描きたい場所に即座に出かけて行けるのありがたい毎日である。感謝している。石垣島の風景は余りに面白くて、飽きるというようなことは全くない。自然の限りないほどの美しさと、それに関わる人間の暮らしが感じられる。これほど面白く有意義な風景はないのではないかと思う。いつか絵でそのことを表せると思っている。
禅堂での修行の場は一畳の畳である。車の中と同じくらいの大きさである。車の中は狭いようで無限大でもある。お寺の接心の期間はそこで生活すべてを行う。狭いようで広くて深い修行の場所である。私の車の中は修行と言うより、極楽の虎の穴である。
車のアトリエでの制作はもう30年になる。狭いと思ったことはない。ドアを開いて眺める世界が限りなく広い。車の中では自由で勝手で、何でもありだ。決めごとはなにもない。好きな絵を描きたいだけ描くアトリエである。
30年間の車アトリエを思い出してみると、車の運転を始めたときから、すぐにそうであった。今のタントで4台目である。1台8年間と言うことになるのか。車アトリエで日本中を回って風景を探しては描いた。日本の風景という物をそれなりに把握できたつもりだ。
東京での絵描きの道が行き詰まり、山北の山の中で自給自足的に生きることにした。山北に移住して数年立ったときから車アトリエは始まったことになる。何故か車の中が描きやすかった。外に出て身をさらして風景を描くと言うことがやりにくくて仕方なかった。見られている状態で描くと言うことが落ち着かなかった。
移住した初期段階は歩いて暮らしていたのだが、養鶏を始めたため車がなければ暮らせなくなった。鶏のエサの運搬などに車が必要になリ免許を取った。そのときから車がアトリエになった。自宅のアトリエでの作り絵を止めて、写生で絵を描くようになった。車で出かけて写生できる場所で絵を描く。そういう習慣になった。
最初の頃は車の中で描いた絵をアトリエに戻っても描いてみることもあった。終わりはアトリエで仕上げていた。ところが全く現場とは意識が違って上手く継続ができないことになった。仕方がないような形で、家のアトリエでは描けなくなった。家にいるのに狭い車の中に入り絵を描くようになった。
車の中では距離を置いて、絵をみることができない。ある意味不自由な車アトリエである。それもあって家では絵を眺めている。最近は家で絵を描くことは無いのだが、家にいる間は絵を眺めている。今もパソコンの画面の向こうには絵が並んでいる。眺めていて気づくことも沢山有る。車の中ではどうも絵のことはほとんど考えることもないようだ。
いつの間にか、家では絵の具を使うことはなくなった。道具すら置いてない。それは石垣島に来てからも同じである。家では筆を使うときは字を書くときだけになった。しかし、絵を見ていると言うときのほうが、実際には絵を描いているような気がする。家で気づいたことを出発点に又車で没頭してしまう。没頭しているときには反射的に絵を描いている。
車のアトリエでは長いときには8時頃から、4時頃まで車の中にいる。車の中で食事もするときもある。そういうときは食べながら絵を描いている。食べていても目の前に風景と絵があると、あそこをああしよう、こうしようという思いが湧いていて、思いついたらやらずにいられなくなる。飽きることもないのが不思議だ。
気づいたときには車から外には出るようにしている。ぐるぐるそのあたりを散歩をして歩く。1時間に一回ぐらいはと思うのだが、一日に一回ぐらいしか出歩かない。大抵は山の中なので、坂道をあちこちうろついている。石垣島にある10カ所の場所では人に会うことはまずない。大体は人気のないような場所なのだ。
車の中では寝転べるようにもしてある。眠りたくなったら寝てしまうこともある。音楽を聴くというようなことはない。風景をあれこれ思いながら眺めている。絵と半々ぐらいで見ている。
アトリエと言っても真剣な場という感じではない。ぬくぬくとした場所である。一番楽にいられる場所である。まったく厳しい場所ではない。それで何故これほど面白いのかと言うほど、楽しい場所である。だから毎日行きたくなる。こんなやり方で絵が良くなるのかどうかは少し心配ではあるが、他にやりようもない。
安心の場所である。安心立命まで行くかどうかは分からないが、絵を描くということでもういいと言うことがある。絵を描くと言うことに寄りかかっていると言うことだろう。自分をその程度の物だと思うしかない。
座禅をやると言うことより、千日回峰業のほうがわかりやすい。何も考えずに座っているのは常人にはむりだ。絵を描くのは釣りの趣味の人が毎日釣りに行くのと一番にていると思っている。漁師ではないので釣った魚はリリースする。描いた絵に成果がなくとも描くこと自体が面白いのだ。
リリースする前に魚拓をとる人はいないのだろうか。せめてこんな大魚をつったというので、写真は撮るかもしれない。もしかしたら、写真も撮りたくないのかもしれない。絵の場合どうだろうか。成果を自慢したくなる物だろうか。まだ成果と言える大魚を釣ったことはないから、リリースしてもいい範囲の絵である。
この先80歳まで絵が描ければ、10年有る。10年しかないという気になる。つまり、100年でも繰り返してこうしていたい。不思議な面白さだ。絵を描くと言うことが実に生きているという面白さだ。これはありがたい。
石垣島に出会えたからではないだろうか。良いことである。ありがたいことである。石垣島の田んぼの絵が描けたらそれで満足である。あの田んぼの感じをどうしても絵にしてみたい物だ。車アトリエのおかげだ。