2拠点生活はどんな調子か

   

石垣島と小田原との2つに生活拠点を持つ暮らしを始めた。こうした暮らしは少しづつ広がっているのだろうが、まだそれほど事例が多いいものでもないだろう。始めて半年のまとめのようなものは人様の参考になることもあるに違いない。家が出来上がったのは去年の10月。それから行き来しながら、5月になった。小田原で稲刈りが終わってから、石垣島への引っ越しを行った。一番大変だったのは荷物の仕分けというものに頭を悩ませた。引っ越し費用が高いという事もある。小田原に残すものと、石垣に持って行くものである。69歳での引っ越しという事は半分は断捨離である。どこまでこの機会に捨てられるかである。結局のところ暮らしに必要なものだけを持って行った。そうしたら石垣の暮らしは実に快適である。捨てきれないものを小田原に残していった。仕方がない仕分けだったのだろうが、何故小田原に置いていったのかというものが多い。一番は絵である。絵はすべて捨てるという事になるのか。そのほか、運びにくいようなものが残されている。
石垣の暮らしは実に快適である。半年経過した結論は残りの人生は石垣島で間違いないという事である。石垣島でやっているのは絵を描くことと散歩ぐらいだ。暮らし方の方も断捨離した。午前中はほぼ絵を描きに出かける。午後は三線などあれこれやる。夕方から散歩に出る。散歩のついでに買い物などをして帰る。1万歩を目標にしていたが、9000歩平均であった。暑くて歩いて居られないという事になった。それでも、半年間あちこちを歩きながら、石垣の素晴らしさというものをつくづく感じる暮らしだった。石垣には石垣生まれの人が多いのだが、私と同様に移住してきた人、石垣の人と結婚して移り住んだ人など、かなり外から来た人が多いようだ。外から来た人は当然感覚が近くて、わざわざなぜ石垣に来たのですかなどと聞かれることはない。東京村というところがあると聞いた。石垣で重要なことは石垣生まれの人たちの人となりである。これが実に移住者にはありがたいものということになる。とても、気を使ってくれる。こちらのことを慮ってくれる。これは島に暮らす人たちの持つ人たち共通のものかもしれない。島という社会はどこにでも行けるような暮らしではない。ずーとここに生きるという枠がある。他所から来たものはその社会に割り込んでいるものだ。迷惑もあるだろうが、私としては自分で役立つことがあるのなら、本気でやりたいと考えている。
小田原に戻ると、たくさんの知り合いがいる。この感覚がずいぶんと違う。農の会の関係だけでも、100人以上の人が友人と言える関係である。この点が石垣とは全く違う。人と力を合わせて何かをやり遂げるという喜びが、小田原にはある。共同の農業をやっているから、そのことは強くなる。自分が役立つ場というものが見えている。今イネの苗を作っている。田んぼの準備も始まっている。自分の能力をすべて出して、やる作業が目の前にある。しかもそれが多くの人にもかかわっている。これはうれしいものである。人間は孤立して生きていたのでは、ダメだと強く感じた。小田原に戻り、一緒に農作業だけは継続する。この考えは正解であった。また、お茶摘みも5月5日にあった。過去経験したことがないほど、気持ちの良いお茶摘みであった。これは助けてもらう喜びである。私はお茶の作業や準備を何もしていない。みんなが準備をしてくれたところに、石垣から来た私を喜んで迎い入れてくれる。世話をしてもらえる感謝の気持ちを含んだ充実であった。
2拠点それぞれの暮らしがある。できるだけこんな日々が続けばと思う。お茶摘むでは8,4キロの生葉を摘んだが、別段疲れたという事もなかった。身体が動く間は大丈夫だ。小田原に来てから1万歩以上になっている。行き来の費用と時間の負担はどうか。おおよそ片道1万円である。年4回を予定している。8万円が移動の費用である。時間的には飛行機は早いから、半日で移動できる。金銭的にも時間的にもそれほどの負担感はない。問題点は1月に小田原に来た時の寒さは辛かった。そもそも暖房は使わない主義で暮らしていた人間なのに、寒くて体が凍えた。子供のころの藤垈の山奥で暮らしていた寒さを思い出した。風邪を引いたというより肺をやられた。あの寒さと大豆の会の活動とどちらを選択するかである。何とか大豆をやりたいのだが、寒さに耐えきれるかである。この辺の日程をもう少し検討するつもりだ。

 - 石垣島