放射性物質は海に流れていた。
東京電力は昨年の5月、屋上に貯まった水が高濃度の放射性物質を含んだまま、側溝に出て、海に流れ出ていた事を把握していた。しかし、それを公表する事は無かった。その対策も特に行うことなく。今日に至った。何と言う愚かな会社であろうか。どこまでずうずうしく、迷惑をかければ済むと言うのだろうか。原発事故という途方もない事故を起こしてしまい。何の反省もない会社が、何故何の責任も負わずにこの社会に存在できるのであろうか。ひど過ぎる話だ。やはり、東電は事故の責任を問われる必要があるのだ。口をつぐんで、身をかがめていれば、ほとぼりがさめると思っているのだろう。安倍氏の世界に公言した、福島原発はコントロールされていて、海への汚染水の流出は無いという、バカバカしい断言が、やっぱりウソだったのだ。全部ウソだった。これほどひどい総理大臣と東京電力。日本と言う国はどうしてしまったと言うのか。
この間、原発の山側から来る地下水を迂回して海に流していいかどうかさんざん議論をしていた。結局のところ、「すべて水に流す。」というのが本音なのだろう。それ以外にないと考えているのかもしれない。水に流しす。そう考えているのではないだろうか。時間さえ経過すれば、すべてが分からなくなると考えているように見える。だらしのない会社と政府。本来であれば、そうしたいい加減な会社を取り締まることが、法律のはずだ。海に流してはいけない放射性物質を、承知して流していたのだから、東京電力は犯罪を犯したのだ。その自覚もなければ、それが追及もされることもない。こんな正義の通らない社会の仕組みで、良いのだろう。報道も事実は流しているが、その追求までは発言が少ない。世界十そうなのだから、仕方がないという空気を蔓延させている。漁業者の抗議は報道されるが、何故こんな犯罪行為が告発されないのだ。これは明らかに犯罪行為である。知っていて流していたのだ。湾内に迂回させる程度の簡単な工事さえしなかったのだ。
福島原発事故で見えてきた、日本社会の利権の構造は、何処まで行っても温存されてゆく。このでたらめが行われている中、電力会社の経営が優先され、東電は儲かっているらしい。原発再稼働が迫っている。安全が確保されたと成っているが、安全の基本はそれを運転している人間である。その人間たちが、ここまで無責任で、適当である事は、原燃の度重なる事故隠しの経過を見ていても良く分かる。日本原燃は原発を管理する資格がないとまで、規制委員会に烙印を押された。人間が利潤の価値観で腐ってしまったのだ。原発村社会という悪環境の中に長年暮らしていて、どうせ、住民に真実を語っても分かってもらえる訳はない。原発村の中の腐った論理が育ったのだ。住民は騙せばいいという伝統である。原発安全神話がその法典である。事故など起こるわけがないが、今度は2度と事故は起きない神話である。
何故、自然エネルギーの開発に進む事が出来ないのだろうか。日本は何処か活力を失ってしまい、新しい事に臆病になっているのかもしれない。自然エネルギーと言っても、実は発電の機器は、巨大な産業になるはずだ。原発事故を起こし、自然エネルギーの開発に国が投資しても、不満が起きにくい状況だろう。日本に技術力があるなら、ここに第3の矢を集中し、大転換を計る事が日本の国益だろう。私はそうなると思っていた。所が現状では、むしろ世界の潮流からさらに遅れ始めている。原発は放射性廃棄物の処理法が見つからず、また、その管理と始末まで考えると、究めて高価な発電方法という事が見えてきている。それでも原発を見捨てる事が出来ない。何故原発が止められないのか。こう考えると、結局のところ、イランや、北朝鮮と同じで、核爆弾の保有国になる希望が捨てられないからではないか。