原発をどう乗り越えるのか。
昨日、小田原市役所大会議室で、「原発をどう乗り越えるのか」と言うシンポジュウムを行った。平塚での飯館村報告会を踏まえて、小田原でも現地の報告を聞く会を行うことになった。飯館村の支援を続けておられる、小澤祥司さん。いわき市北部の橋本宙八さん。川内村の風見正博さん。地震から原発避難までの刻々とした状況が伝わり、胸が痛くなった。小澤さんからは原発事故の汚染現地調査の報告と分析と、政府の対応が全く意味がなかったこと。むしろ、20キロ圏からの避難者を飯館村は引き受けてしまう。ところがむしろその地に止まっていた方が良かったというような、怖ろしい事態に陥る。政府はその状況を十分に把握していたにもかかわらずである。「パニックを起こさない」と言うために、情報統制を行い、原発周辺住民の命が危機にさらされた事実。飯館村に長崎大学から来て行われた、「放射能安全講話」のその後の避難への悪影響。長年の放射能安全教育の弊害。
橋本さんの避難の話は、逃げて逃げて九州まで行った話。何度もチェルノブイリにも行かれて現地で農業をされていた人から聞いた話。「1週間事故のことは知らなかった」という教訓。危機に置いては、政府と言うものは、本当のことは伝えないものだという前提。独自に情報を集めることに専念して、11日当日避難を開始する。那須まで行く、那須から東京へ、東京から津に、そして滋賀へ。滋賀から大阪。そして四国。九州へ。一緒に移動したものは、16名。そして若者はオーストラリアに。いまは箱根の静岡側に暮らされている。この避難を正解だったと断言された。食生活の研究者である橋本さんは、放射能の内部被ばくのことにでは、日本人全員が同じ状況にあるといわれた。どの食べものが安全か、どの食べ物がリスクが高いか。この見極めをする目を一人一人が持たなければならないこと。情報を出さず、命をないがしろにする政府への怒り。
風見さんは、チェルノブイリ以来、何時事故があるかもしれない、原発のそばで暮らす者の覚悟として、測定器を持った暮らしを、常日頃してきたこと。そして、35年全人生をかけて自給の暮らしを追及してきた漠原人村のこと。やはり即座に避難をするが、いまは川内村に戻り暮らしていること。その背景にあるものは、100年かけて、この風景の美しさを取り戻す覚悟の事。自然は同じであるにもかかわらず、同じに見えなくなってしまった自分と言う存在。心のありようのことを語られた。どれほど悪いことであっても、すべてがここを通らなければならない道であったこと。言葉は抽象画のように飛躍しながら、厳然と確立した哲学を語られていた。命を深めるということに悪いことも良いこともない。この原発事故をどのように受け止め、100年の年限をかけてまた素晴らしい景色を取り戻すかということ。
市長も久しぶりに自由に語ってくれた。橋本さんや風見さんとは、古い知り合いと言うこともある。小田原をエネルギー自給圏にしたいという話。小田原での放射能測定を定期的に行うとのこと。浜岡の原発に対して、周辺自治体とともに、再開阻止のために行動したいと話した。市長が自由に語れる環境を作らなくてはならないことを痛感した。秦野から来た友人夫妻が、小田原市長の素晴らしさを力説していた。このような集会を市役所で開催できるということ自体が、どれほどすごいことかと言われていた。市民が自由な空気と環境を作り出す重要性。田植えの終わらない中、農の会では急遽この会を開催した。岩越さんの提案であった。この会は先ずの始まりである。原発をどう乗り越えるのかは、これからの残りの人生をかけて探求しなければならない。これから賠償請求を通して、東電と、政府と、向かい合わなければならない。その覚悟が出来た集会であった。