環境保全活動

   

小田原でエコシティー、環境ネットワークが企画されている。何故環境に関連する団体のネットワークが必要なのか。気に成るところなので考えて見たい。

本来の暮らしは、たとえ狩猟民族であっても、自然環境を守りながら暮らす。日本の里地里山が形成された仕組みは、「手入れの思想」に支えられている。自然との折り合いをつけながらの人間の暮らし。自然を出来るだけ改変することなく、暮らしを織り込ませる。環境活動が特化されている社会がすでに矛盾に満ちている。里地里山の環境を基盤として暮らす人が居て、里地里山は守られる。林業や農業の姿が、国際競争の中で衰退し変質してしまった。日本の農業も、土壌を育みながらの永続性のある農業から、化学肥料、農薬を使う収奪的な、今の利益を目的とする方向へと進んだ。一人ひとりが暮らしを考え、暮らしそのものを、永続性のある循環的なものに変えて行くことに向かうものでなければならない。組織で怪我が多発するので、お医者さんを配置する。組織の形は今のままで、怪我という結果だけを、問題にするのでは根本解決にならない。怪我が起きない仕組みに改編することだ。

日本人の暮らしは都市に集中して、里地里山に暮らす人は消え去ろうとしている。生活が成り立たないからである。この構造を変えることが、根本解決の方向であろう。このことの確認が前提として必要である。環境団体のくくりの中には大きく分けて、行政の補完をしている「清掃活動や花を飾る運動」系と、むしろ行政と対立してきた「焼却場反対やダム反対」の闘争系とがある。そして、最近目立ってきたのが、「まちづくり関連」の環境団体である。この3つの方向の違う組織が、「環境活動では同じなのだから一つでやろう。」脱ダムの思想は、経済構造そのものをかえ、日本人の暮らしを変えようという方向である。果たして、今の経済の方向を認めたうえで、街づくりで街の活性化という方向の人たちと、どのようにネットワークが作れるかである。久野で時々くすぶり返す、墓地の問題。焼却炉の問題。火葬場の問題。最終処分場の問題。残土処理場の問題。牙を抜かれる訳にはいかない。

現実には、この根本思想を問うことなく、方便として環境運動を一応束ねよう、その方が存在を主張できる。というような発想で進んでいるのではないだろうか。具体的に考えればすぐわかることである。小田原メダカの生息する、桑原、鬼柳地区という神奈川県下では、農村環境がある程度残された地域がある。ここに、工業団地を造る構想が進んで来た。工業団地をどうするのか。メダカの保全はどうするのか。この二つはせめぎ合い、矛盾して、ある意味宙ぶらりんの形で存在する。工業団地を作る前提として、大きな道路が作られた。沢山の田んぼがつぶされ、道路に成り、宅地に成り、工場になった。残された田んぼをビオトープ的に環境運動として守ろう。ここで田んぼを行うことで、長いことかかわってきた。田んぼを守る暮らしを作り出すことが、農村環境を維持する唯一の路だと考えるからである。現在もこの矛盾の中で、活動は継続されている。この矛盾した状況自体には環境ネットワークはかかわることは出来ないだろう。

この環境ネットワークには、名前が挙げられている活動100近くある。実際の活動のないものもある。かかわるものも、随分と名前が出ている。知らない間に、名前の出ている団体もある。行政のかかわる環境関連活動だから悪いことではないという、あいまいな行動が広がる。形式だけを整えたところで、新しい負担が増えるだけである。互いの活動が交流できるのかと言えば、活動の場面では対立しかない場合もある。同じ農業だからと言っても、有機の里づくり協議会は参加して、JAは加わらない。鬼柳の農業者は、メダカの協議会には参加しない。自分の中でも、広域の火葬場建設問題では環境政策課と対立する。説明会を行えと、牙を剥きださなければならない。鬼柳の田んぼの整備の約束は。説明会すら開かないで、ごまかしてしまおうという相手に対し、どう交流するのかである。簡単に交流は出来ない。

昨日の自給作業:種まき1時間 累計時間:3時間

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