あしがら農の会とは

   

あしがら農の会のとは何なのか。火曜日に津田塾大学というところで、農の会のことを説明する機会を持った。ゆる体操の先生である藤崎さんからに指示である。先生から指示には従った方がいいので、出かけて農の会のことなどを話した。1時間20分話したのだが、どこまで表現できたのかは、やはり難しい。以前、東大の方々が、農の会の分析をアンケートなど行い、論文を作った。その論文では全く農の会が表現されていないと、農の会の参加者の多くは感じた。上手く出来なかったと、担当ではないが農の会に時々見えていた池本教授も言われていた。その論文だけを読んで、農の会を理解できる人はいないだろうと思う。むしろ誤解するだけだろう。従来の手法で、いまだかつてない組織を分析することなど出来ない。ありきたりの組織であれば、古い手法でいい。新しい組織を表すには、新しい手法が必要である。

今回の説明では、最初に岡田監督の、3分間映像を流させてもらった。本当は、私の絵も見てもらえば良かったと思う。カヨコさんの彫刻も、見てもらう必要があっただろう。ちょろりさんの作品もそうだ。安藤さんの木工作品もそうだろう。そういう全体で農の会を感じてもらった方が、正確に伝わるはずではないか。もちろん東大生の分析論文も参考にはなる。つまり、その全体を第3者が感じるためには、私の絵を見るだけだって案外いいのかもしれない。記録して、伝わるということはそういうことではないかと、改めて思った。それは最初に岡田監督の農の会の記録映画の予告編のようなもの、を見てもらってさらに思った。こういう切り口もある。農の会の持っている感じを伝えるということは、結局のところ参加してもらうしかない。しかし、第3者に伝えるとしたらこのやり方も一つで、長々としゃべったことより、深く心に残っているのではないだろうか。

農の会は自分がやりたいことを提起できる場である。農の会は何もしてくれない。やりたいという人に役立つ場にすぎない。会としての決定を行うこともまずない。一般的には、ここで何かをしてもらえると考えるだろう。農地を貸してもらえる。農業技術を教えてもらえる。作った農産物を販売してもらえる。暮らしてゆく家が提供される。労働力を提供してくれる、ボランティア組織ではないか。賃金をもらって働ける職場ではないか。大抵の人はあれこれ従来ある組織からの連想する。しかし、そのどの一つも当てはまらない組織である。どこまで緩やかに連帯を保てるかを模索している。この煮え切らない状態を受け入れられるかどうかは、農業者としての暮らしではないかと思っている。やりたければどうぞ。という場が存在しているだけの組織である。大豆が作りたいならどうぞ、お茶を、お米を、すべての活動がやりたいと考えた人が提案したものである。面白そうなら、その提案に乗る人がいて、活動が始まる。そして、継続されるだけの価値があるものが残る。

提案されたけれど消えていった活動は様々ある。中には残念な惜しい活動もあった。継続できた活動だけが今ある訳だ。ボランティアという考えはない。やりたい者がやりたいことを提案しやるだけである。この会を個人の思惑で利用しようとして、最初は熱心すぎるように動く人がいる。しかし、いつの間にか落ち着くところに落ち着く。だから、すべてを受け入れても、結局は同じである。出来ることは残るし、利益誘導しようにも自然に淘汰される。そうして生き残った魅力ある活動がいくつかあり。それは自然増殖的に輪を広げて行く。誰も募集はしない。排除もしない。後になってみると、生き残る活動には生き残るだけの理由がある。だから、この仕組みの中には、次の時代を予感させるものが潜んでいると考えている。心地よく暮らしてゆく、大切な要素が存在していると思う。そんなことを、津田塾大学で話しながら学ばせてもらった。

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