続、政治的中立性
政治的中立性については哲学的命題、と言った方がいいのかもしれない。確かに不偏不党で物事を考えるという事は、とても重要な事だ。まず、中立的であることは個人的な努力目標としては成立する。又組織の方針と言う事での歯止めとしてはありえる。しかし、現実の問題に直面した時、どれほど困難なことになるか、あるいは論議を狭くする可能性は、よく考えておく必要がある。他者がそうであるかどうかの判断、あるいは他者に求めてもいいものかどうかも、大抵の場合判断が出来ない。特に市民委員と言う立場は、どこかの組織の決定に縛られていたり、特定の組織の利益を代表するものであって、欲しくはない。しかし、前半でも書いたように、あらゆる問題が政治的に決定されている現実社会の中で、政治的中立性を保って政治的問題に取り組む、と言う事があり得るのだろうか。又、中立の姿勢を貫くことが、問題の本質に迫りうる、唯一の方針と言えるのだろうか。と成ると、現実においては、中立的であろうという各人の姿勢の要望と言う、建前論に終わってしまう可能性がある。
「中立性」によって客観的に自らを相対化できる。相対的に、意見交換を行うためには「中立性」が必要。検討委員の一人である、M氏の指摘である。とても大切な考え方で、学ぶ所である。と同時にと言うか、だからこそ、より内部の中立でない各個の思想をどう保証してゆくか。つまり、中立性という、視点で自らを相対化して、見つめる、個の思想。個の思想が明確化されていない限り、中立足らんとすることもできない。加えて個の思想と、組織の思想との関係がここで出てくる。例えば、経済組織に所属するものが、政治団体に所属するものが、その組織の利益という物を、度外視して、つまり中立性を保持して、社会的政治的事象を判断した方がいい。と言う提案は現実離れしている。組織アピール論として、政治的中立性を提示するイメージ作り。例えば構想日本もそうした中立的機関を主張していた。ウィキペディアの運営主体は非営利団体ウィキメディア財団で、記事の中立性を主張している。しかし、どちらの場合も中立性の良い手本になっているとは言えない部分がある。
対極するもう一つの考え方として、全ての思想は偏向している、と言う前提で考える方法もある。中立性との対立概念。意見を並立して考えるやり方。偏向した個々人の、偏向した意見という前提で、受け止める側の判断にゆだねると言うあり方。全ての意見は相対的なものであるとする立場。組織としては主張を行わない。例えば、自然卵養鶏会はそういう組織である。ネラと言う鶏の飼育状態。草を良く食べる。草を良く食べない。二つの相反する事実が並立列挙される。判断は読む側に託される。読む側が書き手の偏向している事を容認する事で、自由な意見が出やすくなる。案外に、異なる意見の両者が真実である事が多いものだ。
全ての思想は偏向している。これを容認する事も一つの方法である。客観的真実を求めない思想。これは芸術分野では、この偏向が尊重される。もちろん個性的であるという評価と、偏向しているとは違うのだが、一般には同じものと扱われ、おおよその評価はそれで済んでしまう。中立的であることを評価しない世界もある。感覚的であることや、非論理性も、実際的には行動の源泉になっている。それゆえ組織の向上にマイナスであるとも言いきれない。人の言う事は聞かないとか、自己主張に終始する。こう言う事はマイナスイメージであるが、案外に行動に成ると力がある。ウィキペディアの鶏の項を読む。その質レベルには笑ってしまう。しかし、私が鶏の事を書けば、とても偏向した、中立的とは言えない内容になるだろうが、ずっと面白い増しな記事になるだろう。中立で面白いと言うのは、実は困難な事だ。これが、北朝鮮とかいう政治性の強い記事に成ると、中立性を標榜する事が、すでに陳腐化していないか。