お抱え市民団体
市民団体は、行政に対して、独立したものである必要がある。行政の不足部分をボランティア的に、補完するものであってはならない。市民活動は、行政と緊張感を持って、対峙していなくてはならない。その為には行政の役割、市民の役割、これを明瞭にしておかなくてはならない。江戸時代には当然こうしたことは、厳然と区分けされ、その仕組みが崩れると、地域そのものが崩壊し、離村と言う最悪な事態も起こった。そこに暮すと言う事が、運命的なもので固定されたものであるから、地域、部落、こうした基本単位の在り様は相当に練りこまれたものである。地域での相談事の方式は実に念入りで、長時間を要した。3日3番の泊り込みの相談ごと、こう言う事も珍しいことではなかった。今の暮らしは、地域に根ざしてはいない。収入も地域外からえる。生活基盤のすべてが、地域外から得ている。これは地方であれ、一般の事だ。自立自給の暮らしは、それこそ限界集落と不当に呼ばれる場所くらいだ。
市民団体である以上、内容も傾向も当然様々である。神奈川県内の広域ごみの進捗状況を、教えてもらっている中で、市民参加で進めた地域があると聞いた。所がその参加市民団体が、自治会中心であったそうだ。市民参加と言った時、人数を限定しない、直接民主主義的なものから始めなければならない。当然、市全域が関わるような、大きな問題ではなく。防犯灯を地域のどこに設置するか。と言うような所から、練習を始める必要がある。今の暮らしはそう言う事が、誰かにお任せされている暮らしである。任された人が大変苦労して、客観性を配慮しながら、良い落し所に治めている。こうした、面倒のない仕組みが、慣行的に続けられている間に、実は、自治会への加盟率が急速に下がり始めた。先日もそのことを書いた。つまり、自分にとって必要な地域の暮らしが失われている。
暮らしをまとめる、地域の仕組みがなくなった中で、地域の新しい方式が見つけられるか。一つの方向が、テーマコミュニティーと呼ばれるもの。たとえば、地域で公園を作りたい。このことに感心のある人が、公園に関して相談する、コミュニティーを作る。行政がそこに対し一定の予算措置をする。この大原則は、情報の共有化だ。知らなかったというようなことは、万が一にも避けなくてはならない。ここを担保するのが、行政の役割。情報の統括発信が、これからの行政の役割。現在も様々な、市民団体が活動している。しかし、行政にとって都合いい組織と、都合の悪い組織が、使い分けられている。都合いい組織の代表が、自治会である。連合自治会が、城下町ホール賛成推進の要望書を出したことは、記憶に新しい。これが上層部と、市当局との連携であったことは想像できる。こうしたやり方は、違法行為だろう。
市民組織のなかにも、行政主導で動いているものがある。お抱えと言えばいいのか、取り込まれたというか、あるいは政策的組織と言うような、飼いならされた組織が準備される。市民参加をうたい、民主主義を表明したうえで、形式を重んじるためである。市民参加の協議会方式がうたわれた時に、市民参加を都合よく見せるには、不思議な組織を準備することになる。市民組織と行政が癒着していれば、何の意味もなくなる。行政と市民は新しい形を模索する必要がある。今までのやり方では、本当の市民参加は失われてゆくだろう。まず、両者の学習が必要だ。「美しい久野里地里山協議会」はこの点を、模索しなくてはならない。行政のできること、市民のやるべきこと。ここを明確にしてゆく。行政は、事業の透明性の確保。情報の共有化。市民は実際の行動。これが基本ではないだろうか。