福祉駐車
良く行くコロナの湯ビーバートザンには福祉駐車の駐車場所がある。当然一番いい場所である。スーパーなどでも、入り口のすぐそばに止めようとすると、車椅子のマークが白く描かれている。これが始まったときに、さすがにそこに止める人は少なかった。最近では、空いている方が少ない。たぶんなんでもない人が平気で止めるようになった。心は少々ゆがんでいる。別に正義を振りかざして、あれこれ言いたい訳ではないが、こう言う事が一番してはいけないことだと思っている。止めている人をたまたま見かけることがあれば、つい顔を見てしまう。本当なら、一言声を掛けるべきなのかとは思うが、声を掛けられないから、せめて顔だけを見る。どんな年齢の、どんなタイプの人か、興味があると言えば変だが、顔は見る。不思議に似たような怖ろしげな人相をしている。
類似の事ではあるが、もう少し事件化したものが相次いでいる。福祉車両をわざわざ偽装した脱税事件。車検時に福祉車両に見せかけて、優遇税制を悪用する。それを、自動車販売会社がセールスにしていたらしい。さすがにひどすぎないか。生活保護費の不正受給も、相次いでいる。タクシーで病院に行ったようにみせかけて、1000万円以上の大金を詐欺している。障害があるかのように偽装した証明書を出していた医師もいた。こういう犯罪は、取締りの問題とは思わない。心根とか、志の事だろう。今の世情のおかしな所が良く出ている。又江戸時代かと怒られるが、江戸時代はなかった、とまでは言わないが少なかったはずの事件だ。バチが当ることになっていた。やってはいけない第一の事だった。弱者に対する気持ちは、全体で言えば暖かいものがあった。みんながぎりぎりで暮しているのだから、明日はわが身で、人事ではなかった。目の悪い人が、按摩さんをする。ルールではないが、自然成立していた。廻ってきた物乞いに何がしらの物を、渡すというのは誰でもしていた。
配慮がない。おもんばかる心が薄れる。障害がないのに、障害があるごとく証明書を出していた医師。何故そんなばかげたことに手を染めたのだろう。医師という職業は命を預ける仕事だ。信頼が無ければ成立しない。医師の脱税ぐらいはまだいいが、こういうことだけは、ない事でないと、医師という職業が成り立たない。お金が欲しいだけではなかったような気がするのだ。気持ちに歯止めがなく、善悪と言うものの量り方が、狂って居るように思う。福祉駐車に平気でとめる気持ち。どうせ空いているから、大したことはない。近い方が都合がいい。車に乗っていると、そうした自分の地が出がちなものだ。この生きてゆくのに、どうでもいいようなだらしない気持ちの蔓延が、目立つと思う。
平塚でも死にたくなったので、人を刺した女の人が現われた。通り魔自殺と言える犯罪。全部どこかが繋がっているように思う。暮してゆくのが、どうでも良くなる。全てが後ろ向きの気持ちになる。これが、自由競争の結果だ。弱者とか、敗者とか、階層社会の顕著化。がんばって農業をしていて、日々の努力と言うものと、決裂したらしいWTOの交渉とが、もうどうにもならないように、絡み合っている。実態は見定めがたいが、日々のわずかな努力など、経済的には一瞬に無になるような、世界が空想される。そうしたまともな努力が報われない社会。社会において、稲作は無駄だから出来るだけ辞めてください。こういわれてきた、減反政策。こう言われながら、稲作を続けるうちに、失った誇り。たぶん工場でも、抜きん出た修練の技術が、ある日、価値を失う。生きる誇りが大切に出来ない社会。相当に深刻な状況だと思うが。